labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「西洋思想史」(金曜日・三限)第一回

初回はイントロダクション。
前学期行う「西洋思想史」の授業について、シラバスを元に解説するのが通例であるが、初回から大きく脱線した。

まず、「西洋思想史」とはそもそも何なのか。英語では、"History of Ideas"であるが、今年度のテーマは、「心と世界の関係」なので、それと絡めて、今後授業で出てくる"Idea"の意味について、少し解説した。「西洋思想史」とあるが、西洋は漠然としているし、思想史の意味も広く、よくわからないので、授業では「西欧哲学史」をやる、と注意。

よく考えたら、英語での本講義名は、"History of Western Philosophy"か何かだったと思うので、とんちんかんな出だしだったかもしれない。多分だれも気付いていないが。

続いて、西欧哲学史を学ぶことの意義について考察。Sellarsの有名な言葉、

哲学史なき哲学は、空虚や盲目ではないにしても、唖である」"Philosophy without the history of philosophy, if not empty or blind, is at least dumb." (Science and Metaphysics, Ridgeview, 1993, p. 1)

を引き合いに出し、哲学史をやることの意義について考察した。コンテキストが大事ということで、段落丸ごと英文解釈。

いきなり授業で英文解釈を始めて、面食らった学生もいたかもしれないわけだが、それならしてやったりである。もちろんこれには理由がある。そもそも西洋の文化を知るためには、外国語を修得しなければならない。西洋思想史を本気でやるためには、外国語を身に付けるように、というアドヴァイスをした。語学力のない自分に跳ね返ってくるので、自爆した感がある。だれも気付いていないことを祈る。

さて、Sellarsの発言は、もちろんカントの「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は空虚である」(『純粋理性批判』 A 51 / B 75)をもじったものである。つまりセラーズの言明は、その言明自体が、哲学史の素養がないとコンテキストが理解できない仕組みになっており、そこが自己言及的で面白いわけである。学生が気付いてくれていることを祈る。

そこから、カントの発言についても少し検討し、この講義では主に、カントが問題にするに至った「概念と知覚の関係」、したがって、「心と世界の関係」、「心の哲学」を、哲学史的に見て行くということを伝えた。あらかじめ、大陸合理論と英国経験論の総合としてのカント哲学を先に見ておくことの問題がないわけでもないが、目的地を先に見ておくことで、この授業が何をメインに扱い、問題とするかが見えやすくなると考えたからである。

世間を賑わせている「反知性主義」に絡めて、知性主義の時代である17世紀を扱うことの意義を論じたりもした。アドリブでやっているので、ここら辺は適当であるし、やや物騒なところであるが、学生にとっては、異文化について学問をすることへの関心や問題意識をもってもらいたいので、あえて扱った。

あとは、17世紀科学革命について触れるなどした。初回から盛りだくさんだったかもしれない。なお、今回は、自分自身の意見を授業中に多く発言するよう心がけようと思っている。