labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

非存在対象の指示の問題――分析哲学と現象学の起源としての――

今日は雨模様だし、研究室で作業していても、最近は外でやっているテニスの音がうるさくてストレスが溜まるので、おうちで作業することにした。なぜ何も無いのではなく、校舎の目の前にテニスコートがあるのか。

午前はデカルトに苦闘。午後は読みたい本でも読もうと、ジョスラン・ブノワの『対象なき表象:現象学分析哲学の起源』の序論をちょっと読んだ。

原題は、

Jocelyn Benoist, Représentations sans objet: Aux origines de la phénomenologie et de la philosophie analytique, Paris: Presses Universitaires de France, 2001

フランス留学時に購入し、いつか読もうとそのまま積んでいた本の一つである。もう15年前の本になるし、専門家にとっては常識であろうから、今更紹介するのも、という思いもあるが、日本ではまだあまり広く知られていないようでもあるので、周知と勉強を兼ねて一つ記事でも書いておこう。

目次は次のような感じ。

ジョスラン・ブノワ『対象なき表象:現象学分析哲学の起源』

 序論  非存在対象の問いと、現象学分析哲学の共通の起源

 第一章 ボルツァーノと非存在対象のパラドクス

 第二章 フレーゲ的迂回:指示の前提

 第三章 志向性論者による最初の解決:トワルドフスキー

 第四章 非存在の対象化:マイノング

 第五章 存在-論理的装置:マイノングによる二つの可能な批判

 付論  ブレンターノにおける「何か或るもの」について

 第六章 フッサールのトワルドフスキー批判

うーん、すでにすごく面白そうではないですか。とりあえず、序論について適当にメモってみませう。

ジョスラン・ブノワは『対象なき表象』において、指示の問題、とりわけ指示を欠くものについての問題に焦点を当てる。扱っているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけての論理学の哲学。そのアプローチは、議論の発展を描くものであり、フランス流の哲学史にきわめて特徴的なものだと思う。19世紀末における論理学の哲学の主要問題はまさに「指示の問題」であったわけだが、それは後の現代哲学を発展させることになった決定的問題である。

心理主義相対主義が跋扈していた時代にあって、哲学者たちは対象の領域を真に回復するべく取り組んでいた。20世紀への変わり目、そこにフレーゲフッサールが登場し、記念碑的著作が刊行された。(フレーゲの『算術の基礎』[1889]とフッサールの『算術の哲学』[1891]あるいは『論理学研究』第一版[1900-1901])。それぞれ、分析哲学および現象学の起源と目されるものであるが、両者は共通に、非言語的指示(心的指示)を問題にしていた。

ブノワは、ここに両派の共通の起源を見る。20世紀の哲学を構成することになる指示の問題は、「意味」の要素として対象が果たす役割や、対象へのアクセスに関する省察という点で意味論的な問いである。

さらにブノワは、20世紀思想を特徴付ける三種のシェーマとして、「表象/作用、意味/内容、指示/対象」があるとする。両派の起源が同一だとするのは、指示の客観性(対象性)を問題にしているということで、単純に扱っている問いが同一だから、というのではない。20世紀に生じた様々な流派の違いは、三種のシェーマを各々どう調整・解釈しているかという点に見られる、ある構造の変奏なのであって、このことは20世紀の哲学の異なる流派を整理するのに役立つことになるという。

本書が問題とするのは、このシェーマにおける第三の領域が空虚な場合である。すなわち、指示を欠き、対象がない場合、つまり「対象への指示を欠く」場合に意味の問題はどうなるのか。ブノワは、この問題に関する哲学史を発生学的に描こうとする。

ブノワは本書において、「指示対象を欠いても意味をもつ」といういわゆる《志向的対象のパラドクス》を、ボルツァーノにまで遡りラッセルまで下っていく。そこで扱われているのは、現象学分析哲学の起源および共通部分と考えられるものであり、両派の立場を決定するエンジンの役割を果たした非存在の問題が中心である。

ブノワによると、「非存在の指示」の問題は、はるかソフィストにまで遡るようだ。しかし、この問題が本格的な哲学的問題として立てられたのは、19世紀はじめのボルツァーノにおいてであり、彼によるカントの表象主義に対する批判に由来する。ボルツァーノの哲学は「意味論的客観性」の問題に焦点を当ており、そこで問題にされていたのは、対象的領域の対応がなくとも意味は統一性をもちうるというパラドクスである(ブノワはWissenschaftslehre[1837] §67を指示している)。それは、フッサールが『危機』§70でも述べた、「志向的対象のパラドクス」へと繋がって行く問題である。

こうしてブノワは非存在対象の指示の問題を、さらにフレーゲ、トワルドフスキー、マイノング、ラッセル、ブレンターノ、フッサールにおいて、それぞれ具体的に検討していく。

なお、ブノワは、本書と共に、本書と対をなす別の本において、志向性の限界、そして志向性論者の観点の限界について検討するとしている。その別の本とは、『フッサールの『論理学研究』における志向性と言語』(Intentionalité et Langage dans les Recherches Logiques de Husserl)であり、志向性の現象学的概念を論じるものである。『論理学研究』では、非存在対象の指示の射程、および指示の現象学的理論の外延が問題にされているようである。したがってこっちの本では、フッサールの『論理学研究』において、非存在対象の指示の問題を問うということであろう。これもおもしろそうですね。

やはり志向性の問題については、もっと勉強した方が良さそうです(あと、ドイツ語)。