labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ボルツァーノの「論理学」の定義

ボルツァーノの「論理学」の定義が気になったので調べて見ました。ただのお勉強メモです。

原書。

Bernhard Bolzano, Wissenschaftslehre, In 4 Bänden, (Leibzig 1929), hrsg. von Wolfgang Schultz, Band 1, Scientia Verlag Aalen 1970.

これには現在、頼りになる英訳があります。

Bernard Bolzano, Theory of Science, 4 vols., Trans. by Paul Rusnock and Rolf George, Oxford University Press, 2014.


ボルツァーノは『学問論』(Wissenshcaftslehre)において、「論理学」を「学問論」と同義なものとみなしています。そこで、学問論の定義をしている序論の第1節をみてみましょう。


ボルツァーノは、あらゆる真理の集まりを、「人間知識の総体」die Summe des ganzen menschlichen Wissensと呼びます。また、ある種の真理の集まりを、ある「学」eine Wissenchaftと呼び、その学について、あらゆる既知の重要な真理を記録している任意の本を、その学の「学術書」ein Lehrbuchと呼ぶ、としています。


ボルツァーノは、多くの人は、学を、単にある種の真理の集まりではなく、諸命題の完全な全体として理解している、またわれわれはしばしば「学」を「知識」Kenntnißと同義なものとして語る、と述べています。しかしこれは、われわれが先に見た「学」や「学術書」の客観的な定義と対比して、主観的な捉え方であるとして、自身の学問論の定義が真理という客観的領域に基づく客観的なものであることを暗に強調しています。


また、ボルツァーノは、学術書はその学の「真正な学的提示」をもつものである、とも述べています。ここでの「学的」wissenschaftlichということでは、提示されている命題が秩序に従っており、ある種の証明によって導かれていることを意味します。このように、学ということの性格に、そこでの命題が証明されていることと、命題間の秩序的連関があることが求められてます。ここは、ライプニッツ的な「真理連鎖」の考えの影響を認めたくなるところであり、実際、ライプニッツボルツァーノの関係は、普遍数学や論理学の系譜として、しばしば指摘されています。


「学」ということでボルツァーノが捉えていることは、彼自身が次の4項目にまとめています。


a) 必要な前提知識さえあれば、その主題について知られているすべてについて、自らを導き学ぶことができるものであること。

b) その学術書に含まれていることのすべてが可能な限り明晰かつもっともらしく提示されていれば、いかなる疑いや誤りも消え去るようなものであること。

c) 正しい推論を行う能力を成長させるものであること。

d) それまでになされた発見が、多くの新しい発見へと導くものであること。


ボルツァーノは、真理の領域全体を個々の個別の学問へと分割しているところの諸規則、これらを集めたものもまた、学と呼ばれて良いとします。ボルツァーノはこの諸学についての学を「学問論」Wissenschaftslehreと呼びます。というのもそれは、他の諸学をどのようにして提示するべきかを教えてくれる学であるからです。


こうして、ボルツァーノは学問論を、あらゆる真理の領域を個別の学へと分割し、それらを各々の学術書において提示する際に、われわれが従うべきところのあらゆる規則の集まりを意味するものとします。


すなわち、学問論の定義を簡潔に言えば、諸学の適正な学術書における提示を指導する学、ということになります。


以上が学問論の定義をしている『学問論』序論第1節の内容ですが、その後の序論第6節で、学問論は、別の名で「論理学」Logikと呼ばれているものとまったく同義とし、以降では省略して「学問論」の代わりに端的に「論理学」を同じものとして用いています。