labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(5)――「哲学史は哲学か?」という問いそのものを問う――

哲学史研究者がつねに念頭におかなければならないのは、ウィトゲンシュタインの「哲学は学説ではなく活動である」(『論理哲学論考』4.112)に象徴されるタイプの批判である。ウィトゲンシュタインがどういう意味を込めてこの言明をなしたのかは詳しくはわからないが、その言明を字義通りに受け取ると、これは従来の哲学史研究型の哲学に対する批判と受け取れる*1

これは本当に良くある批判で、とりわけウィトゲンシュタインの影響を受けた哲学者にこうした見方をとっている方が多い気がする。でも、気持ちはワカル。哲学史はそれが、誰それがどういうことを言いましたというような単なる学説の陳列にとどまっていれば、確かに哲学ではないだろう。哲学にとって本質的なのは、哲学者たちの学説に関する知識ではなく、あくまで自らの思考である、というわけである。このような立場の人たちの中には、哲学史に関する無知は、哲学をするための本質的な障害とはならないと考える者もいるようである。

これに対して、哲学史をやっていても哲学である、と信じているかたくなな方もおられるようである。哲学の古典などを通じて、自由や正義、真理などの諸問題を深く考えるのであれば、確かにそれも哲学ではなかろうか。うむ。確かに、思考する方向性は現代に向いていないかもしれないが、これもまた哲学に違いない。

他方で、哲学史は学説を整然と並べていれば、それで十分とする見方もあろう*2。変な哲学的思想を混入させた主観的哲学史観は、ときに害悪となりかねない。徹底した思考が伴っていれば、それはそれで面白いだろうが。ついつい余計なことを言っちゃう方は確かに多い。しかし、単なる哲学者の学説を並べただけの本ほど、つまらないものもない。困ったなあ。

こうなると、哲学として何を理解しているかがそもそも違うので、哲学史が哲学たりうるかという問いにも様々な回答がありうることになる。

哲学史に哲学の要素を認めない方が、哲学をするための教養としての哲学史をも否定するのだろうか、というところでは、意見が分かれそうである。ウィトゲンシュタインであれば否定するであろうが、あれは極端な哲学のスタイルで、天才以外はまねしないでほしい、というのがぼくの感想である。普通は哲学をするためには何らかの哲学史的素材があった方がやりやすいであろう。

哲学の現代的な諸問題に取り組むための最適化や効率を重んじるならば、たしかに哲学史は哲学への余計な迂回であるように映る。現代の科学や倫理に関わる、古典には存在していない哲学的問いを扱う場合にはとりわけそうであろう。哲学史を扱っていても現代的意義を問うような場合にも、当時の文脈を重視するタイプの哲学史研究は単なる迂回と見なされるであろう。

哲学史をきちんとやろうとすると、語学の習得や緻密な文献研究、論争や学説の歴史を当時の文脈に沿って理解するなど、一見「哲学的でない」さまざまな労働を伴うことになるので、哲学をやろうとしてただの歴史的研究に終わるということも多いにありうる。

それでも、伝統的な哲学的問題を扱う場合には多くのヒントを得られるであろうし、哲学史との比較を通じて、現代的な問題の位置づけも理解されるであろうから、やはり哲学史は哲学にとって重要だ、という点は今のところ疑っていない。

考えるべき生産的な問いは、「哲学史の教養を用いて哲学するとはいかなることか」、というものであろう。この問いは、しかし、哲学史研究でしかまともに答えられない哲学的問いの一つだと考える。哲学史研究から哲学に昇華した経験的なサンプルは、哲学史にしかないのであるから。

*1:ウィトゲンシュタインは、自らの思考もまた哲学の歴史の影響を受けている、とは想像しなかったのだろうか?

*2:ヘーゲル曰く、「阿呆の画廊」。