labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

哲学史の方法。村上勝三氏の「理由の系列としての哲学史」メモ。


村上勝三氏(以下敬称略)が近著『知と存在の新体系』において、哲学史の方法について論じている箇所がある。第1章の「理由の系列としての哲学史」である。以下は、その内容についてのメモである。

知と存在の新体系

知と存在の新体系


哲学史は多くの場合、現代を終着点にする。その場合、最も進歩した時代である、現代の哲学が最も優れているという進歩史観に染まりやすい。村上は、このような哲学史進歩史観を懐疑する。進歩史観は、今を都合よくもっとも真理に接近していると解釈してしまい、現代に対する批判的精神を歪めてしまいかねないからである(無論、そこでは「真理」や「進歩」といった概念そのものが問われねばならず、これら自体が哲学の課題である)。


しかし我々は、現代を終着点として、それへ向けて歴史を組み替える傾向性をもつ。これは今を生きる人間がどうしても逃れられない、人間が自然にもつ傾向性である。したがって、我々の課題は、このような傾向性をもちながらも、進歩史観をどのようにして免れうるかということになる。問題は、進歩史観から受け取る影響を、どのように軽減できるかにある。そこで、村上が本書で提示するのが、「理由の系列としての哲学史」である。それは、さまざまな教説の展開を、理由に基づいて描いていくことである。こうして、「理由の系列を辿ることによって、我々は現実的出来事と時間の流れを或程度捨象できるので進歩的歴史観を抜け出しやすくなる」(6頁)。たとえば本書では、現代哲学とは無関係であり、今更問い直す必要もないと考えられる主題の具体例として、「神の存在論的証明」を挙げ、それが進歩的哲学史観の帰結であることを主張する。


また、次のようにも言う。「歴史を振り返るということは、現状を問い直すための材料を手にすることである。哲学史を学ぶということは、現状を問い直すためのさまざまな視点と物差しを手に入れることである。現状の問い直しは、いつでも「私」についての問い直しをともなう。私のいない現状はないからである」(8頁)。「私」を獲得しうるのは、「哲学史の往復」なくしてはありえないのである。


つまり、哲学史の意義は、現代についての批判的精神を養い、現状を問い直すための多様な視点と基準の確保にある。現代に生きるわれわれが感じている思いが、いったいどのような「ものの見方」の上に成り立っているものなのか。そのようなわれわれの思いの習慣は、伝統の上に立って形成されているが、それをもう一度洗い直して自分の思いを確かめ直すのは、哲学史探求の一つのかたちである。それは、現代に生きる「私」を探求することでもある。「理由の系列としての哲学史が提供するのは「私」を再獲得する道筋である」(17頁)。


現代にとらわれない、普遍的に適用可能な「ものの見方」というものは、哲学の歴史のなかに探求することで、手に入れることができるものである。その意味で、哲学史研究とは、真理の発見過程の探索であり、さまざまな「ものの見方」を振り返ることである。「批判的視点を提供してくれるさまざまな「ものの見方」を手に入れるためには哲学史を遡ったり、哲学史の流れを追ったりしながら自分の思索を鍛えなければならない」(13頁)。こうした「ものの見方」は、単純にどちらか一方が優越している、という第3の共通の尺度を見つけられるものではない。その共通の尺度が選ばれるための第4の尺度を必要とし、以下、無限背進に陥るからである。


哲学史研究では「費用逓減の法則」、要するに、その労力に対する哲学的な効果や結果が疑問視されるが、村上はこうした現代科学および現代社会に蔓延している便利さの重視、すなわち、ある種の効率至上主義に対して、強い危機感を感じているように見受ける。たとえばそのことは、「哲学史研究において求められていることは、生活上の便宜ではない。さまざまに展開されて来て、いつの時代でもそこから考えてみることによって現象の異なる相貌が現出するような見方、「ものの見方」である」(13頁)と述べていることからも、伺うことができる。


以上のように、村上が提示する「理由の系列としての哲学史」のあり方は、哲学史進歩史観的な先入見を批判的に洗い直す、批判的哲学史観である。その目的は、本来、各時代各哲学者のあいだで異なったり断続的である哲学史を、理由の系列として辿ることで、「ものの見方」が変遷していくことを理解する連続性を確保しつつも、そのことにより現代を到達点としてわれわれの認識が進歩していくという歴史的価値観をいくらかでも軽減することにあろう。また、その哲学史は、より普遍的な観点から現代を批判的に評価し、われわれの位置付けをより客観的な仕方で再確認することを意図していよう。