「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(4) ――カッシーラーの哲学史の方法――
西洋思想史の授業準備のためにカッシーラー『認識問題』を第一巻から読みはじめる。その序文に、カッシーラーが哲学史の方法について少し書いているのでメモ。
「哲学史は、それが真に学問であるかぎりは、多彩に継起する事実を知るのを学ぶための収集品陳列室ではありえない。むしろそれは、われわれがこれらの事実を理解するのを学ぶための方法たらんとする。そのさい哲学史の支えになる原理が究極的には「主観的」であることは、もちろん真である。しかしこのことが意味しているのは、われわれの洞察がここでもまたわれわれの認識の規則と法則によって条件づけられているということにほかならない。ここにあるかにみえる限界は、見抜かれさえすれば克服される。すなわち、直接与えられた現象とその理論的解釈のための概念的手段がもはや無差別に溶融せずに、両方の契機が相互に浸透しながらも相対的に自立しているものとして捉えられさえすれば、そうした限界は克服される」*1
哲学史は事実の単なる陳列室ではない。哲学史そのものが、事実を理解するための方法である。哲学史が歴史的事実の解釈であるかぎりは、主観的であることを免れない。しかし、「直接与えられた現象」とその「理論的解釈」があくまでも互いに自立しているものとして捉えられていることが、独断論的、つまり悪い意味で主観的な哲学史にならないために重要だ、ということだろう。
カッシーラーが『認識問題』の序文に述べている哲学史の方法のポイントは次の3点である。
・1. 概念形成の歴史的探究
「基本概念の形成を歴史的源泉そのものにそくして研究し、その概念の表現と帰結の個々の歩みをすべてこの源泉から直接に正当化すること」
・2. 批判的観点
1によって個々の思想は歴史的に忠実な再現がされ、それと同時にある知的視野から把握されるが、その際、「批判の観点に立った入念な追試」を行うこと。
・3. 思想的総合の必要
「個々の事実を結びつける内的統一が、これらの事実とともにおのずとじかに与えられるのではなく、つねに思想的総合によってはじめて創造されねばならない」
カッシーラーは自らの哲学史の方法を「序文」で触れてはいるが、それほどまで明確にはしていない。しかし、『認識問題』の内容そのものに、自らの哲学史の方法が反映されているということだろう。
補足
序文ではまだあまりに漠然としていたが、哲学史の方法に関する見解が「序論」でも少し述べられているので、もう少し補足できるかもしれない。
1への補足。「序論」で、カッシーラーは、単に理論の歴史を示すのではなく、概念の内的展開を描くことを掲げている。「認識理論の歴史は、認識概念の内的展開の姿を十分に伝えてくれない。われわれはある時代の経験的研究のなかに、その具体的な世界観や人生観の変転のなかに、その時代の論理的根本見解の革新を辿らねばならない」(p.6)。認識理論は思想運動の成果として出されたものを総括してくれるが、起源や動因を解明してくれるわけではない。カッシーラーは、体系的哲学として完成されたある哲学理論に関心があるというよりは、ある概念がそのような哲学理論に組み込まれるに至ったプロセスに焦点があるように思われる。
カッシーラーは後の箇所でも、「ある時代の知的な運動全体から、それを支配し促進する認識理想を再構成するようあえて試みることにしよう」と述べている(p.8)。これは、体系的哲学やそれに直接的に貢献した思想だけではなく、ある思想が形成された精神運動を全体として捉えようとすることであり、「経験主義」「合理主義」「批判哲学」のような安易な段階的分類は無意味でしかないという批判的動機もある。これは、それまでの体系的哲学理論重視の哲学史観に対する批判的観点ということで、2に絡んでくることかもしれない。
また、「認識問題」にテーマを限定したことについても触れている。認識問題の歴史とテーマを限定したからといって、それは哲学の歴史の一部分をしか描かない、ということではない。哲学の諸問題は入り組んでおり、そもそもテーマごとにきれいに分離できるようなものではなく、問題による分離は恣意的な制限にすぎない。「その[認識問題の]歴史はむしろ、哲学の領域全体をある一定の観点と照明のもとで叙述し、それによって近代哲学の内容をいわば縮図にして見せてくれるのである」(p.11)。
3への補足。「思考的総合」ということば が「序論」でも登場している。「精神の歴史とは、われわれが思考的総合によってそうした事実[歴史的現象]からつくるものにほかならない」(p.13)。「精神の歴史」はそこに事実として横たわっているわけではなく、われわれの思惟活動によって構成されねばならないものである、という強い意志がうかがえる。