labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(6)――「哲学史の研究こそ哲学の研究である」とするヘーゲルの見解について――


ヘーゲルは「哲学史の研究こそ哲学の研究である」と述べたことで有名ですが、はたしてそのような主張はいかにして導かれたのでしょうか。今回は、このことを確認したいと思います。そこで、

ヘーゲル哲学史序論――哲学と哲学史――』武市健人 訳、岩波文庫、1967年

から、その哲学史と哲学の関係について述べているところを中心にメモをとってみました。

  • 哲学はその歴史の必然的産物であること

ヘーゲルはまず、既存の学問をさらに改良・発展させることが学問ないし哲学の使命であることを確認し、次のように述べます。

「既存の精神世界を前提し、それを自分の者として改造するというこの生産の本性の中に、我々の哲学が本質的に前の哲学との関連においてのみ生じうるということ、またそこから必然的に生じたということの意味がある。従って歴史の行程は、我々に外的な諸物の生成を叙述するものではなくて、この我々の生成、我々の哲学の生成を叙述するものにほかならない」42頁

すなわち、より新しい哲学はそれより古い過去の哲学の必然的帰結としてあるのです。

  • 哲学史の哲学そのものに対する関係

次にヘーゲルは、哲学史が単なる出来事の叙述ではなく、哲学史自身が哲学となることを前もって主張しています。

「即ち哲学史は単に外的なもの、出来事を叙述するにすぎないものでないこと、むしろ内容こそ――即ち単に歴史的なものであるように見えるものこそ――、それ自身が実は哲学に属するものであることが明らかになる。即ち哲学史そのものが学問的〔哲学的〕なものであり、本当は哲学という学問にさえなるものであることが分るのである」46頁

  • 哲学とは何か

さらにヘーゲルは、哲学史を通じて得られる偏見、あるいは哲学に対する通俗的認識について、聴衆に対し注意を促します。すなわち、歴史を通じて哲学者の意見がころころ変わるからといって、そこから哲学の空しさを帰結するのは誤りである、と(cf. 35頁)。なぜなら、哲学は真理を対象とする客観的な学問であって、諸々の哲学者たちの意見の綴り合わせではないからです(cf. 56頁)。

「哲学は真理の客観的な学問であり、真理の必然性の学問であり、概念的認識であって、いかなる意見〔私念〕でもなく、意見の綴り合せでもない」56頁

続いて、哲学史もまた通俗的な偏見にさらされている、とヘーゲルは指摘します。ヘーゲル哲学史を固定された意見の陳列として捉える見方を拒否し、哲学史を自ら更新していく運動として捉え直します。

哲学史は附加のない単純な内容の固定を表示するものでも無く、また単に新しい宝が既得の宝に静かに附加して行く行程だけを展示するものでもない。むしろ常に自分を更新して行く全体の諸変化の光景を表すものと言ってよい。」52頁

  • 「阿呆の画廊」

哲学史がさらされている通俗的哲学史観は、「阿呆の画廊」と呼ばれているものです。このような哲学史観は、ヘーゲルにとってはもっともつまらなく、真理からほど遠いもので、受け入れがたいものです。

哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解」54頁

  • 哲学の目的と方法

ヘーゲルは、哲学の目的は、哲学的意見を尊重することではなく、真理を認識するということであると考えています。しかし真理はただ突っ立っているだけでは得られないし、直接的な知覚や直観においては認識されません。「ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」のです(60頁)。

このように、ヘーゲルはこと哲学に関するかぎり、相対主義とか多元論とか、あるいは哲学は空虚だとする見方にはまったく与していません。哲学はあくまで唯一の客観的真理を目的とし、思惟を通じて真理を概念的に探究する学問なのです(63-66頁)。

  • 哲学史を通じた哲学的認識の空しさの立証

ヘーゲルは、新しい哲学が現れて、他のものは無価値だと主張することがある、とします。しかしその新しい哲学もまた同じ経験をすることになる、と指摘します。

「見よ、君の哲学を反駁し、駆逐するだろう哲学が、やがて必ず訪れるだろうことを。それは曾て他のいずれの哲学にも、もれなく訪れたのと同様である。」62頁

しかし、ここから哲学あるいは哲学史研究の空しさが帰結するわけではありません。先に見たように、哲学は真理の探究であり、哲学的意見が揺らいでも、確実に理念は発展しており、真理は確個としてあるからです。哲学者の言説が多様であるからといって、真理の探究を諦めるのは、信念の弱さの帰結にすぎないというわけです。

「真理の勇気、精神の力に対する信念が哲学の第一条件である」34頁

力強いヘーゲル。自分も少し、信念を失っていた気がします。

  • 世界精神

真理へ向けて思惟する精神の理性的な運動、ヘーゲルはこれを「世界精神」として捉えているようです。世界精神は個々の精神のことではなく、それらが属している一個の普遍的精神、あるいは諸々の精神の有機的全体であり、かつそれらが通史的なものとして、時間の外にある永遠の相のもとに捉えられたもののようです。

「世界精神に対するこの信仰をもって、我々は歴史に、また特に哲学史に向わねばならない。」66頁

そこにおいて、理念とその発展は、即自・向自・統一という運動をなします。ヘーゲル弁証法です。ここはヘーゲルの独自な思想が入り込んでいて、自分でも何を言っているのかわからず、どうしたって明晰に理解するのが難解な部分なので、ごまかしておきます。またいずれ検討したいところです。

  • 理念と発展

「理念」とは、ヘーゲルにおいて、思惟の産物としてもっとも上位にくる概念であり、真な思想のことです。理念はその本性として発展することをもちます(67頁)。

また、ヘーゲルにとって理念は具体者であり、哲学はそうした具体的な理念が発展していく有機的体系としてあります。

哲学はたしかに普遍性を問題し、その内容は抽象的にうつります。しかしそれは形式的側面においてのみであり、その理念は具体的である、とします。ヘーゲルは哲学が抽象的なものにすぎないとするよくある批判を想定しているのでしょう。そして次のように断言します。

「哲学は抽象的なものとは最も相容れないものである。従って哲学の真の内容は具体者である」74頁

次に「発展」についてですが、哲学史もまた哲学と同様に発展の体系である、としています(80頁)。哲学史と哲学、両者は発展の性格は違うにもかかわらず、実は同一であることが述べられます。

「歴史における諸々の哲学体系の契機の順序は、諸々の概念規定の論理的展開における理念の継起の順序と同一である」81頁。

すなわち、哲学史の時間的な順序は哲学の理念的段階の順序と根本的には同一だ、とヘーゲルは主張しているのです(82頁)。

以上から、ヘーゲルは次のように結論します。

哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究である」82頁

哲学はその論理的な発展として、時間の中に現れて歴史をもちます。したがって哲学史の研究は、哲学の研究となるのです。こうしてヘーゲルは、哲学が理念の発展の体系として見られるとき、むしろ哲学史のみが学問の名に値するものである、とまで言います。
そして、このようなヘーゲルの哲学の進歩史観に従った場合、「もっとも新しい哲学」は、理念がもっとも発展した哲学であり、それまでの哲学史を含むものでなければなりません(98頁)。

小考

確かに、哲学や理念の発展に関するヘーゲルの諸前提を受け入れ、世界精神という永遠の観点から見たら、哲学史と哲学は究極的には一致するのだろうな、というのが私の素朴な感想です。しかしここに、哲学史と哲学が究極的には表裏一体の学的活動であると考えてもあながち間違いではなさそうな、一つのヒントが見て取れるようにも思うのです。

ただ、ヘーゲルのような大局観あるいは長期的視点は、現代における哲学史と哲学の関係では、論点にすらならない気もしていて、ヘーゲル以上に時間的余裕のない時代、しかも分野間交流がますます難しくなっていく専門分化の時代においては、また別の、中期的な、より生産的な哲学と哲学史の関係といったものが追求されるべきなのだと考えます。