labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

コンピュータは志向性を実現できるのか?

あんまり放置していてもあれなので、久しぶりにブログ。

授業準備の過程で、ティム・クレイン『心は機械で作れるか』第一章を読んでみたので、そのゆるい感想でも。なお、この本は後期の哲学講読で扱う予定なので、その準備を兼ねた一石二鳥的な考えもないわけではない。

心は機械で作れるか

心は機械で作れるか

「志向性intentionality」というのは本当に心に特別な何かなんだろうか、という疑問がずっとあった。前年度、演習でサール(志向性研究を代表する哲学者)の本『マインド 心の哲学』を扱ったときも、志向性のところはうまく咀嚼できずにひっかかるところがあり、どこか自分の説明の中に歯切れの悪さのようなものを感じていた。

「志向性」とは、哲学固有の用語で、心的状態がもつ表象するという性質のことである。つまり、思考はすべて何かあるもの「について」の思考であるが、その何かあるものに向かうという性質のことである。ここでの何かあるものは、存在するものでも、存在しないものであってもよい。現象学界隈ではこの性質を指して、「志向性ビーム」とか言うそうであるが、心が何かに向けてビームを放っていると想像すれば、わかりやすいかもしれない。

一部の哲学者はこの志向性を、物理的なものとは異なる心に特有のものとみなし、哲学が他の諸科学に還元されないある種の最後の砦のようなものとしてきた感がある。

志向性の問題も、何だかよくわからないので、何かしらの疑似問題なのではないかと懐疑的に見ていた。人間のような知的生命体の思考だけが、何かについて表象することができるのだろうか。「何かに向かう」という機能は、何も心に特別の機能というわけではなく、物理的にも実現できるものではないのだろうか。

物理的なものでも、何かを表象しているということはある。たとえば本の文章は、著者の考えや物事を表現している。その意味では、「何かに向かう」ことは心に特有の現象ではない。ライプニッツなどは、物理的なものはすべて、程度の差こそあれ、世界を何らかの仕方で心的に表象しているという哲学を展開した。

また、心的表象のような関係は、数学にだってあるのではないだろうか。もっとも素朴な例を考えると、数学的な関数f(x)=yだって、グラフとしての見方もあるが、xという入力ないし原因に対して、yという出力ないし結果へと向かっているのであり、関数fはまさにそのような志向性であると解釈したってかまわないのではないか。むろん、この見方では、因果性と関数的対応の混同など、いろいろなことが問題となりうるだろう。しかし、計算は思考がもつ単純かつ抽象的な部分でもある。コンピュータが計算をしているにもかかわらず、そこに志向性がないとするのは、人間の思考には含まれるが計算機には実現できない、心に特有の何かがあるという主張を含意するだろう。コンピュータが計算するときは数を志向していないが、人間が計算するときは数を志向していることになる。その意味では、真に数学ができるのは人間だけということになろう。そのような特殊性を人間の思考に与える志向性とは、一体なんなのであろうか。

こうした見方に対し、クレインは、そうした本がもつ志向性は、本を書いた著者や読者の思考から派生したものである、という見方があるとする。こうして志向性の擁護者は、何かに向かう機械を作れたとしても、その志向性は機械の作成者や使用者の心による派生的なものにすぎず、根源的な志向性をもつ心による解釈を必要とする、という。

しかし、そのような区別には、どこか哲学固有の前提が入り込んでいるような気もする。伝統的な主観性の哲学や、一人称的記述の問題などが、関わっているように思われる。ただ、まだ志向性の問題について勉強が足りなさすぎるので、はっきりとはわからないのだけれど。

人が志向的状態をもつとき、つまり何かについて考えているときに、脳や神経で実際どのような現象が起きているのかという分析は、現代の科学技術をもってすれば容易な問題であるように思われる。また、昨今は人工知能ブームなどもあって、人間の思考もまた機械で実現されうるのではないか、という機運が高まっているように思われる。ロボットに概念をもたせるなどの構成的手法の試みも流行っているようである。こうした手法によって、物理的説明に還元されない心に特別の機能とみなされてきたものも、機械的に実現されるのだろうか。あるいは、たとえそうした機械化がなされたとしても、心の解明をしたとは言えないという、はっきりとした哲学的理由があるのだろうか。

本書はこの問題、つまり「コンピュータは心がもつ根源的な志向性を実現できるのか」という問題に正面から向かっている(解決するとは言ってない)ように思われるので、続きを読むのが楽しみ(一気に読むとは言ってない)。

追記1:心的であることは志向性の必要条件か

つまり、志向性をもちさえすれば、それは心的であることを示すのか。

今日(6/28)授業で最後に扱ったブレンターノ・テーゼと、それに対する反論は、当然ながらすでにいろいろ議論があるようだ。

クレインは、ブレンターノ・テーゼの必要条件の部分には不可解なところがある、としつつも、説得力があると見ている。しかし、どうも「何かへと向かう」という漠然とした志向性の定義に、不安感を感じていた。

「ブレンターノ・テーゼ」とは、「心のみが志向性という性質をもつ」という主張である。これは、「すべての心的現象が、そして心的現象だけが志向性を示す」ということである。これは、すべての心的状態が志向性を示すという十分条件と、心的状態だけが志向性を示すという必要条件として書き換えることができる。
これにしたがえば、必要条件からは、志向性のあるなしが心理的なものと物理的なものを分ける決定的規準となる。

しかし、物質がもつ傾向性のようなものも志向性すなわち何かへと向かう性質としてみなせるので、ブレンターノ・テーゼは問題があるかもしれないよね、と誰でもカンタンに思いつく指摘をして、授業をなんとなく終わったのだった。

たとえば次の論文が物理的なものでも志向性を示すものがある、という点を扱っている。

http://pq.oxfordjournals.org/content/49/195/215.full.pdf

こうした見方に対して、ブレンターノ・テーゼの支持者は、心がもつ根源的志向性が、物理的な傾向性(disposition)とはおよそ根本的に異なる、心的状態に特有の性質であることを論証しなければならない。

追記2:原書第三版。

The Mechanical Mind

The Mechanical Mind

邦訳は1995年の初版によるものであるが、それ以来20年が経過し、心の哲学をめぐる議論はかなりアップデートしている。

原書も2016年に第三版を出しており、いくつかの変更や増補をしている。

したがって、より最近の事情を踏まえた原書第三版を読むか、すでに持っていれば邦訳と合わせて読むのが望ましいだろう。

とはいえ、ディープラーニングなど従来の人工知能のあり方を一変する革新的技術が登場し、心の哲学をめぐる状況はしばらくゴタゴタするようにも思われる。ディープラーニングの技術は、シンボルグラウンディング問題やフレーム問題によって、AIつまり人間のように考えるコンピュータは不可能であるとする議論を封じ込めることになるのだろうか。あるいは、人間の思考であることを妨げる問題がそこには依然として宿っているのだろうか。哲学的に極めて興味深い問題である。

しかし、知的好奇心からこの問題に学術的に取り組むというだけではなく、経済産業の活性化というビジネス的な意味にかぎらず、軍事的な意味でも、国家レベル・民間レベルで巨額が動いているのが懸念される。

人工知能ブームにただ振り回されない、問題の本質を深く掘り下げて、人間の思考と人工知能の将来を見通すことのできる哲学的議論すなわち基礎研究が、そして人工知能を応用する上での倫理的議論すなわち応用哲学が、いまより切実に求められているだろう。