ゲーデルにおける概念と性質の問題
今取り組んでいる,ゲーデルのラッセル論文に関連して,みなさんご存知,ytb_at_twtさんからご教示いただきました.
まず,ゲーデルは次のように言っています.
「感覚知覚と概念の知覚のあいだには差異よりも類似の方が多くある.実際,物理的対象は概念よりも間接的に知覚される.異なる角度から感覚対象を知覚することの類比物は,論理的に同値だが異なる概念different logically equvalent conceptsの知覚である」
ここでの文脈は,感覚知覚と概念の知覚とのあいだにはアナロジーがある,というゲーデル-ラッセルの有名な議論です.ゲーデルは,外延が必ずしも(集合などに代表される)「事物」や「個体」ではなく,外延として「概念」をとることも認めているので,「論理的に同値だが異なる概念」ということで何を言っているのかを捉えるのが難しいのです.
「概念の知覚」を問題にしているので,こちらでは,外延として設定されているのが,概念と考えられますし,実際ゲーデルは客観的対象として事物(集合)と概念の2つを採ります.あと,ゲーデルでは各命題関数ごとに対応するnotion(思念)が想定されていて,これは,概念(concept)と区別されています.概念も思念も,命題関数を表している記号によって定義される何かです.しかし,思念というのは,命題関数を形成している,記号と置き換え規則の対で理解されるものです.他方で,同じ一つの概念は,1) 二つの異なる記述を持って良く,2) 外延性の公理などが成り立ちます.つまり,思念では,記号が異なるか,置き換え規則が唯一でなく異なっていれば,異なる思念となりますが,概念では,命題関数に共通する一つの形式として,恣意的な記号表現や規約的な置き換え規則に依存しない,何か普遍的なものを考えています(詳しくはゲーデルのラッセル論文[1944]参照).
フレーゲとゲーデルの比較で言えば,フレーゲ的な意義も,フレーゲ的な意味(指示対象)も,ゲーデル的な概念ではない.また,ゲーデルは,フレーゲのように「概念」をある未飽和な関数としては捉えない.ゲーデルにとって「概念」とは,客観的に存在する対象で,異なる命題関数に共通し得る,客観的な形式のことです.たとえば,ラッセルのパラドクスを引き起こしている非可述的性質に共通して認められるそうした概念として,ゲーデルは「自分自身に対しては適用されない」という概念を考えています.
このことに関連して,ytbさんから次のような質問がありました.
ytb:ゲーデルにおいて、性質(property)と概念って関連しているのか?ゲーデルは、有名な「ラッセルのパラドックスは属性理論のパラドックスだ」という台詞にあるように、性質はある種の外延で表現できると見なしていたようだが。
そして,ytbさんはこの質問の典拠を示されました.
John Myhill "Paradoxes" Synthese 60 (1984) 129-143, opening sentence
`Godel said to me more than once, "There never were any set-theoretic paradoxes, but the property-theoretic paradoxes are still unresolved"'
ytbさんによれば,Godelはラッセルのパラドックスと性質の理論のパラドックスについてMyhill に何度も語ったらしいが、Myhillの論文にもその説明がない模様。
つまり,ゲーデルはラッセルのパラドクスを,「性質」のパラドクスと解しているようだけど,ここで「性質」としてゲーデルが何を理解していたのか,ゲーデルははっきり述べておらず,何を言わんとしているのかがよくわからないようなのです.
次に,性質とラッセルの命題関数について,Zahlangabeさんからご教示いただきました.それによれば,
Zah: 「性質」は(1)内包的な同一性基準を持ち、(2)一般名詞で表されるようなものを指すのが普通。ゲーデル(1944)の「概念」は、今ざっと見た印象だと、(1)外延的な同一性基準を持ち、(2)一般には命題関数で表されるようものであり,
Zah: ラッセルにおいては、命題関数が表すentityがもしあるとすれば、それは単称名辞で表せるものになるはずなので、「ラッセルのパラドクス」は本当は「命題関数のパラドクス」なのだと言っても不自然ではない
とのことです.
概念と性質の関係は正直,わたしも良くわかっていません.ゲーデルは「ラッセルの数理論理学」(1944)という論文で,ラッセルのパラドクスで問題になる内包的記法φを,φによって定義される非可述的な性質ないし事態と把握しています.ゲーデルの立場は,実在論的観点からは,そうした非可述的性質の構成可能性は問題にならない,というものです.ゲーデルは,その論文で,concept, notion, symbol などの,彼にとっての論理学の基礎的対象を,形而上学的厳密に区別しようとしています.しかし,肝心の性質や事態が何なのかは説明しておらず,未定義のままです.数学的な厳密さに関しては,おそらく誰よりもずばぬけて厳しかったと想うのですが,形而上学的な厳密さに関しては,どこか不徹底なところがあるようです.ゲーデルによれば,それは哲学がまだ発展途上にあるからなのですが,無論ゲーデルはそのような曖昧さに満足できず,哲学に関する著作は,ほとんど出版されていません.
ゲーデルで「性質property」が問題になるのは,1) ラッセルのパラドクスの文脈と 2) 神の存在論的証明で,単純かつ肯定的性質が問題になるところ.2)に関連するところでは,Wang[1996]では,Propertyは「事物の差異の原因」とあります.
ゲーデルは「ラッセルの数理論理学」において,ラッセルのパラドクスは,内包公理に現れる非可述的定義(自身がそれに属すような不当な全体に言及してなされた定義)に由来する,内包のパラドクスである,と分析しています.
「内包」というのは,「外延」が個体ないし概念の集合あるいはクラスのことであるのに対し,性質や概念(concept)や思念(notion)の内容によって理解されることがらを指します.たとえば,「赤の外延」は赤色のものたちですが,「赤の内包」は,赤という語によって理解される概念内容のこと,簡単に言えば,「赤の定義」のことと考えてよいと思います.
さて,ラッセルのパラドクスは,「内包公理」が抱える問題に由来し,{ x | φ(x)}という内包的記法によってある集合ないしクラスを定義することに関わっていました.ゲーデルによれば,ラッセルがすぐれているのは,そのパラドクスが,集合とクラスを混同したことによる数学的な概念に依存したからというものではなく,論理的なパラドクスなのだと分析したということにあります.
そして,ゲーデルはそのラッセルのパラドクスが,「内包的パラドクス」である,と分析します.すなわち,「自分自身に対しては適用されない」,という概念がラッセルのパラドクスを引き起こすクラスの代わりとなることによって,形成されるパラドクスのことです.
ラッセル論文でゲーデルは,ラッセルのパラドクスが,内包のパラドクスであって,非可述的定義の問題は単純タイプ理論で解決できているけれども,そのパラドクスに含まれている,概念の問題はまだ解決されてない,という議論を展開しています.ゲーデルにとっては,数学に非可述性が現れるのは自然なことであり,直観的に理解できることです.大雑把にいえば,そのような数学的直観を救うために,フレーゲやラッセルとも異なる,「概念」の論理学という道をとることになるのですが,そこで,ライプニッツ研究が深く関わってくるのです(まだ研究中なので詳しくは述べられません!).性質理論のパラドクス,という言い方もまた,この概念の論理学という計画に関わる,一つの問題なのかもしれません.なぜなら,性質の内包的同一性条件が,(同じ一つの)概念であるとすると,(それぞれある性質を表す)異なる命題関数に共通する形式としての概念ということで,ゲーデルが言いたかったことが,すっきり理解できるように思うからです.
【IEP】Russell-Myhill Paradox http://www.iep.utm.edu/par-rusm/
【SEP】Properties http://plato.stanford.edu/entries/properties/
【SEP】Russell's Paradox http://plato.stanford.edu/entries/russell-paradox/
【SEP】Curry's Paradox http://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/