labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

コンピュータは志向性を実現できるのか?

あんまり放置していてもあれなので、久しぶりにブログ。

授業準備の過程で、ティム・クレイン『心は機械で作れるか』第一章を読んでみたので、そのゆるい感想でも。なお、この本は後期の哲学講読で扱う予定なので、その準備を兼ねた一石二鳥的な考えもないわけではない。

心は機械で作れるか

心は機械で作れるか

「志向性intentionality」というのは本当に心に特別な何かなんだろうか、という疑問がずっとあった。前年度、演習でサール(志向性研究を代表する哲学者)の本『マインド 心の哲学』を扱ったときも、志向性のところはうまく咀嚼できずにひっかかるところがあり、どこか自分の説明の中に歯切れの悪さのようなものを感じていた。

「志向性」とは、哲学固有の用語で、心的状態がもつ表象するという性質のことである。つまり、思考はすべて何かあるもの「について」の思考であるが、その何かあるものに向かうという性質のことである。ここでの何かあるものは、存在するものでも、存在しないものであってもよい。現象学界隈ではこの性質を指して、「志向性ビーム」とか言うそうであるが、心が何かに向けてビームを放っていると想像すれば、わかりやすいかもしれない。

一部の哲学者はこの志向性を、物理的なものとは異なる心に特有のものとみなし、哲学が他の諸科学に還元されないある種の最後の砦のようなものとしてきた感がある。

志向性の問題も、何だかよくわからないので、何かしらの疑似問題なのではないかと懐疑的に見ていた。人間のような知的生命体の思考だけが、何かについて表象することができるのだろうか。「何かに向かう」という機能は、何も心に特別の機能というわけではなく、物理的にも実現できるものではないのだろうか。

物理的なものでも、何かを表象しているということはある。たとえば本の文章は、著者の考えや物事を表現している。その意味では、「何かに向かう」ことは心に特有の現象ではない。ライプニッツなどは、物理的なものはすべて、程度の差こそあれ、世界を何らかの仕方で心的に表象しているという哲学を展開した。

また、心的表象のような関係は、数学にだってあるのではないだろうか。もっとも素朴な例を考えると、数学的な関数f(x)=yだって、グラフとしての見方もあるが、xという入力ないし原因に対して、yという出力ないし結果へと向かっているのであり、関数fはまさにそのような志向性であると解釈したってかまわないのではないか。むろん、この見方では、因果性と関数的対応の混同など、いろいろなことが問題となりうるだろう。しかし、計算は思考がもつ単純かつ抽象的な部分でもある。コンピュータが計算をしているにもかかわらず、そこに志向性がないとするのは、人間の思考には含まれるが計算機には実現できない、心に特有の何かがあるという主張を含意するだろう。コンピュータが計算するときは数を志向していないが、人間が計算するときは数を志向していることになる。その意味では、真に数学ができるのは人間だけということになろう。そのような特殊性を人間の思考に与える志向性とは、一体なんなのであろうか。

こうした見方に対し、クレインは、そうした本がもつ志向性は、本を書いた著者や読者の思考から派生したものである、という見方があるとする。こうして志向性の擁護者は、何かに向かう機械を作れたとしても、その志向性は機械の作成者や使用者の心による派生的なものにすぎず、根源的な志向性をもつ心による解釈を必要とする、という。

しかし、そのような区別には、どこか哲学固有の前提が入り込んでいるような気もする。伝統的な主観性の哲学や、一人称的記述の問題などが、関わっているように思われる。ただ、まだ志向性の問題について勉強が足りなさすぎるので、はっきりとはわからないのだけれど。

人が志向的状態をもつとき、つまり何かについて考えているときに、脳や神経で実際どのような現象が起きているのかという分析は、現代の科学技術をもってすれば容易な問題であるように思われる。また、昨今は人工知能ブームなどもあって、人間の思考もまた機械で実現されうるのではないか、という機運が高まっているように思われる。ロボットに概念をもたせるなどの構成的手法の試みも流行っているようである。こうした手法によって、物理的説明に還元されない心に特別の機能とみなされてきたものも、機械的に実現されるのだろうか。あるいは、たとえそうした機械化がなされたとしても、心の解明をしたとは言えないという、はっきりとした哲学的理由があるのだろうか。

本書はこの問題、つまり「コンピュータは心がもつ根源的な志向性を実現できるのか」という問題に正面から向かっている(解決するとは言ってない)ように思われるので、続きを読むのが楽しみ(一気に読むとは言ってない)。

追記1:心的であることは志向性の必要条件か

つまり、志向性をもちさえすれば、それは心的であることを示すのか。

今日(6/28)授業で最後に扱ったブレンターノ・テーゼと、それに対する反論は、当然ながらすでにいろいろ議論があるようだ。

クレインは、ブレンターノ・テーゼの必要条件の部分には不可解なところがある、としつつも、説得力があると見ている。しかし、どうも「何かへと向かう」という漠然とした志向性の定義に、不安感を感じていた。

「ブレンターノ・テーゼ」とは、「心のみが志向性という性質をもつ」という主張である。これは、「すべての心的現象が、そして心的現象だけが志向性を示す」ということである。これは、すべての心的状態が志向性を示すという十分条件と、心的状態だけが志向性を示すという必要条件として書き換えることができる。
これにしたがえば、必要条件からは、志向性のあるなしが心理的なものと物理的なものを分ける決定的規準となる。

しかし、物質がもつ傾向性のようなものも志向性すなわち何かへと向かう性質としてみなせるので、ブレンターノ・テーゼは問題があるかもしれないよね、と誰でもカンタンに思いつく指摘をして、授業をなんとなく終わったのだった。

たとえば次の論文が物理的なものでも志向性を示すものがある、という点を扱っている。

http://pq.oxfordjournals.org/content/49/195/215.full.pdf

こうした見方に対して、ブレンターノ・テーゼの支持者は、心がもつ根源的志向性が、物理的な傾向性(disposition)とはおよそ根本的に異なる、心的状態に特有の性質であることを論証しなければならない。

追記2:原書第三版。

The Mechanical Mind

The Mechanical Mind

邦訳は1995年の初版によるものであるが、それ以来20年が経過し、心の哲学をめぐる議論はかなりアップデートしている。

原書も2016年に第三版を出しており、いくつかの変更や増補をしている。

したがって、より最近の事情を踏まえた原書第三版を読むか、すでに持っていれば邦訳と合わせて読むのが望ましいだろう。

とはいえ、ディープラーニングなど従来の人工知能のあり方を一変する革新的技術が登場し、心の哲学をめぐる状況はしばらくゴタゴタするようにも思われる。ディープラーニングの技術は、シンボルグラウンディング問題やフレーム問題によって、AIつまり人間のように考えるコンピュータは不可能であるとする議論を封じ込めることになるのだろうか。あるいは、人間の思考であることを妨げる問題がそこには依然として宿っているのだろうか。哲学的に極めて興味深い問題である。

しかし、知的好奇心からこの問題に学術的に取り組むというだけではなく、経済産業の活性化というビジネス的な意味にかぎらず、軍事的な意味でも、国家レベル・民間レベルで巨額が動いているのが懸念される。

人工知能ブームにただ振り回されない、問題の本質を深く掘り下げて、人間の思考と人工知能の将来を見通すことのできる哲学的議論すなわち基礎研究が、そして人工知能を応用する上での倫理的議論すなわち応用哲学が、いまより切実に求められているだろう。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(6)――「哲学史の研究こそ哲学の研究である」とするヘーゲルの見解について――


ヘーゲルは「哲学史の研究こそ哲学の研究である」と述べたことで有名ですが、はたしてそのような主張はいかにして導かれたのでしょうか。今回は、このことを確認したいと思います。そこで、

ヘーゲル哲学史序論――哲学と哲学史――』武市健人 訳、岩波文庫、1967年

から、その哲学史と哲学の関係について述べているところを中心にメモをとってみました。

  • 哲学はその歴史の必然的産物であること

ヘーゲルはまず、既存の学問をさらに改良・発展させることが学問ないし哲学の使命であることを確認し、次のように述べます。

「既存の精神世界を前提し、それを自分の者として改造するというこの生産の本性の中に、我々の哲学が本質的に前の哲学との関連においてのみ生じうるということ、またそこから必然的に生じたということの意味がある。従って歴史の行程は、我々に外的な諸物の生成を叙述するものではなくて、この我々の生成、我々の哲学の生成を叙述するものにほかならない」42頁

すなわち、より新しい哲学はそれより古い過去の哲学の必然的帰結としてあるのです。

  • 哲学史の哲学そのものに対する関係

次にヘーゲルは、哲学史が単なる出来事の叙述ではなく、哲学史自身が哲学となることを前もって主張しています。

「即ち哲学史は単に外的なもの、出来事を叙述するにすぎないものでないこと、むしろ内容こそ――即ち単に歴史的なものであるように見えるものこそ――、それ自身が実は哲学に属するものであることが明らかになる。即ち哲学史そのものが学問的〔哲学的〕なものであり、本当は哲学という学問にさえなるものであることが分るのである」46頁

  • 哲学とは何か

さらにヘーゲルは、哲学史を通じて得られる偏見、あるいは哲学に対する通俗的認識について、聴衆に対し注意を促します。すなわち、歴史を通じて哲学者の意見がころころ変わるからといって、そこから哲学の空しさを帰結するのは誤りである、と(cf. 35頁)。なぜなら、哲学は真理を対象とする客観的な学問であって、諸々の哲学者たちの意見の綴り合わせではないからです(cf. 56頁)。

「哲学は真理の客観的な学問であり、真理の必然性の学問であり、概念的認識であって、いかなる意見〔私念〕でもなく、意見の綴り合せでもない」56頁

続いて、哲学史もまた通俗的な偏見にさらされている、とヘーゲルは指摘します。ヘーゲル哲学史を固定された意見の陳列として捉える見方を拒否し、哲学史を自ら更新していく運動として捉え直します。

哲学史は附加のない単純な内容の固定を表示するものでも無く、また単に新しい宝が既得の宝に静かに附加して行く行程だけを展示するものでもない。むしろ常に自分を更新して行く全体の諸変化の光景を表すものと言ってよい。」52頁

  • 「阿呆の画廊」

哲学史がさらされている通俗的哲学史観は、「阿呆の画廊」と呼ばれているものです。このような哲学史観は、ヘーゲルにとってはもっともつまらなく、真理からほど遠いもので、受け入れがたいものです。

哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解」54頁

  • 哲学の目的と方法

ヘーゲルは、哲学の目的は、哲学的意見を尊重することではなく、真理を認識するということであると考えています。しかし真理はただ突っ立っているだけでは得られないし、直接的な知覚や直観においては認識されません。「ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」のです(60頁)。

このように、ヘーゲルはこと哲学に関するかぎり、相対主義とか多元論とか、あるいは哲学は空虚だとする見方にはまったく与していません。哲学はあくまで唯一の客観的真理を目的とし、思惟を通じて真理を概念的に探究する学問なのです(63-66頁)。

  • 哲学史を通じた哲学的認識の空しさの立証

ヘーゲルは、新しい哲学が現れて、他のものは無価値だと主張することがある、とします。しかしその新しい哲学もまた同じ経験をすることになる、と指摘します。

「見よ、君の哲学を反駁し、駆逐するだろう哲学が、やがて必ず訪れるだろうことを。それは曾て他のいずれの哲学にも、もれなく訪れたのと同様である。」62頁

しかし、ここから哲学あるいは哲学史研究の空しさが帰結するわけではありません。先に見たように、哲学は真理の探究であり、哲学的意見が揺らいでも、確実に理念は発展しており、真理は確個としてあるからです。哲学者の言説が多様であるからといって、真理の探究を諦めるのは、信念の弱さの帰結にすぎないというわけです。

「真理の勇気、精神の力に対する信念が哲学の第一条件である」34頁

力強いヘーゲル。自分も少し、信念を失っていた気がします。

  • 世界精神

真理へ向けて思惟する精神の理性的な運動、ヘーゲルはこれを「世界精神」として捉えているようです。世界精神は個々の精神のことではなく、それらが属している一個の普遍的精神、あるいは諸々の精神の有機的全体であり、かつそれらが通史的なものとして、時間の外にある永遠の相のもとに捉えられたもののようです。

「世界精神に対するこの信仰をもって、我々は歴史に、また特に哲学史に向わねばならない。」66頁

そこにおいて、理念とその発展は、即自・向自・統一という運動をなします。ヘーゲル弁証法です。ここはヘーゲルの独自な思想が入り込んでいて、自分でも何を言っているのかわからず、どうしたって明晰に理解するのが難解な部分なので、ごまかしておきます。またいずれ検討したいところです。

  • 理念と発展

「理念」とは、ヘーゲルにおいて、思惟の産物としてもっとも上位にくる概念であり、真な思想のことです。理念はその本性として発展することをもちます(67頁)。

また、ヘーゲルにとって理念は具体者であり、哲学はそうした具体的な理念が発展していく有機的体系としてあります。

哲学はたしかに普遍性を問題し、その内容は抽象的にうつります。しかしそれは形式的側面においてのみであり、その理念は具体的である、とします。ヘーゲルは哲学が抽象的なものにすぎないとするよくある批判を想定しているのでしょう。そして次のように断言します。

「哲学は抽象的なものとは最も相容れないものである。従って哲学の真の内容は具体者である」74頁

次に「発展」についてですが、哲学史もまた哲学と同様に発展の体系である、としています(80頁)。哲学史と哲学、両者は発展の性格は違うにもかかわらず、実は同一であることが述べられます。

「歴史における諸々の哲学体系の契機の順序は、諸々の概念規定の論理的展開における理念の継起の順序と同一である」81頁。

すなわち、哲学史の時間的な順序は哲学の理念的段階の順序と根本的には同一だ、とヘーゲルは主張しているのです(82頁)。

以上から、ヘーゲルは次のように結論します。

哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究である」82頁

哲学はその論理的な発展として、時間の中に現れて歴史をもちます。したがって哲学史の研究は、哲学の研究となるのです。こうしてヘーゲルは、哲学が理念の発展の体系として見られるとき、むしろ哲学史のみが学問の名に値するものである、とまで言います。
そして、このようなヘーゲルの哲学の進歩史観に従った場合、「もっとも新しい哲学」は、理念がもっとも発展した哲学であり、それまでの哲学史を含むものでなければなりません(98頁)。

小考

確かに、哲学や理念の発展に関するヘーゲルの諸前提を受け入れ、世界精神という永遠の観点から見たら、哲学史と哲学は究極的には一致するのだろうな、というのが私の素朴な感想です。しかしここに、哲学史と哲学が究極的には表裏一体の学的活動であると考えてもあながち間違いではなさそうな、一つのヒントが見て取れるようにも思うのです。

ただ、ヘーゲルのような大局観あるいは長期的視点は、現代における哲学史と哲学の関係では、論点にすらならない気もしていて、ヘーゲル以上に時間的余裕のない時代、しかも分野間交流がますます難しくなっていく専門分化の時代においては、また別の、中期的な、より生産的な哲学と哲学史の関係といったものが追求されるべきなのだと考えます。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(5)――「哲学史は哲学か?」という問いそのものを問う――

哲学史研究者がつねに念頭におかなければならないのは、ウィトゲンシュタインの「哲学は学説ではなく活動である」(『論理哲学論考』4.112)に象徴されるタイプの批判である。ウィトゲンシュタインがどういう意味を込めてこの言明をなしたのかは詳しくはわからないが、その言明を字義通りに受け取ると、これは従来の哲学史研究型の哲学に対する批判と受け取れる*1

これは本当に良くある批判で、とりわけウィトゲンシュタインの影響を受けた哲学者にこうした見方をとっている方が多い気がする。でも、気持ちはワカル。哲学史はそれが、誰それがどういうことを言いましたというような単なる学説の陳列にとどまっていれば、確かに哲学ではないだろう。哲学にとって本質的なのは、哲学者たちの学説に関する知識ではなく、あくまで自らの思考である、というわけである。このような立場の人たちの中には、哲学史に関する無知は、哲学をするための本質的な障害とはならないと考える者もいるようである。

これに対して、哲学史をやっていても哲学である、と信じているかたくなな方もおられるようである。哲学の古典などを通じて、自由や正義、真理などの諸問題を深く考えるのであれば、確かにそれも哲学ではなかろうか。うむ。確かに、思考する方向性は現代に向いていないかもしれないが、これもまた哲学に違いない。

他方で、哲学史は学説を整然と並べていれば、それで十分とする見方もあろう*2。変な哲学的思想を混入させた主観的哲学史観は、ときに害悪となりかねない。徹底した思考が伴っていれば、それはそれで面白いだろうが。ついつい余計なことを言っちゃう方は確かに多い。しかし、単なる哲学者の学説を並べただけの本ほど、つまらないものもない。困ったなあ。

こうなると、哲学として何を理解しているかがそもそも違うので、哲学史が哲学たりうるかという問いにも様々な回答がありうることになる。

哲学史に哲学の要素を認めない方が、哲学をするための教養としての哲学史をも否定するのだろうか、というところでは、意見が分かれそうである。ウィトゲンシュタインであれば否定するであろうが、あれは極端な哲学のスタイルで、天才以外はまねしないでほしい、というのがぼくの感想である。普通は哲学をするためには何らかの哲学史的素材があった方がやりやすいであろう。

哲学の現代的な諸問題に取り組むための最適化や効率を重んじるならば、たしかに哲学史は哲学への余計な迂回であるように映る。現代の科学や倫理に関わる、古典には存在していない哲学的問いを扱う場合にはとりわけそうであろう。哲学史を扱っていても現代的意義を問うような場合にも、当時の文脈を重視するタイプの哲学史研究は単なる迂回と見なされるであろう。

哲学史をきちんとやろうとすると、語学の習得や緻密な文献研究、論争や学説の歴史を当時の文脈に沿って理解するなど、一見「哲学的でない」さまざまな労働を伴うことになるので、哲学をやろうとしてただの歴史的研究に終わるということも多いにありうる。

それでも、伝統的な哲学的問題を扱う場合には多くのヒントを得られるであろうし、哲学史との比較を通じて、現代的な問題の位置づけも理解されるであろうから、やはり哲学史は哲学にとって重要だ、という点は今のところ疑っていない。

考えるべき生産的な問いは、「哲学史の教養を用いて哲学するとはいかなることか」、というものであろう。この問いは、しかし、哲学史研究でしかまともに答えられない哲学的問いの一つだと考える。哲学史研究から哲学に昇華した経験的なサンプルは、哲学史にしかないのであるから。

*1:ウィトゲンシュタインは、自らの思考もまた哲学の歴史の影響を受けている、とは想像しなかったのだろうか?

*2:ヘーゲル曰く、「阿呆の画廊」。

ボルツァーノの「論理学」の定義

ボルツァーノの「論理学」の定義が気になったので調べて見ました。ただのお勉強メモです。

原書。

Bernhard Bolzano, Wissenschaftslehre, In 4 Bänden, (Leibzig 1929), hrsg. von Wolfgang Schultz, Band 1, Scientia Verlag Aalen 1970.

これには現在、頼りになる英訳があります。

Bernard Bolzano, Theory of Science, 4 vols., Trans. by Paul Rusnock and Rolf George, Oxford University Press, 2014.


ボルツァーノは『学問論』(Wissenshcaftslehre)において、「論理学」を「学問論」と同義なものとみなしています。そこで、学問論の定義をしている序論の第1節をみてみましょう。


ボルツァーノは、あらゆる真理の集まりを、「人間知識の総体」die Summe des ganzen menschlichen Wissensと呼びます。また、ある種の真理の集まりを、ある「学」eine Wissenchaftと呼び、その学について、あらゆる既知の重要な真理を記録している任意の本を、その学の「学術書」ein Lehrbuchと呼ぶ、としています。


ボルツァーノは、多くの人は、学を、単にある種の真理の集まりではなく、諸命題の完全な全体として理解している、またわれわれはしばしば「学」を「知識」Kenntnißと同義なものとして語る、と述べています。しかしこれは、われわれが先に見た「学」や「学術書」の客観的な定義と対比して、主観的な捉え方であるとして、自身の学問論の定義が真理という客観的領域に基づく客観的なものであることを暗に強調しています。


また、ボルツァーノは、学術書はその学の「真正な学的提示」をもつものである、とも述べています。ここでの「学的」wissenschaftlichということでは、提示されている命題が秩序に従っており、ある種の証明によって導かれていることを意味します。このように、学ということの性格に、そこでの命題が証明されていることと、命題間の秩序的連関があることが求められてます。ここは、ライプニッツ的な「真理連鎖」の考えの影響を認めたくなるところであり、実際、ライプニッツボルツァーノの関係は、普遍数学や論理学の系譜として、しばしば指摘されています。


「学」ということでボルツァーノが捉えていることは、彼自身が次の4項目にまとめています。


a) 必要な前提知識さえあれば、その主題について知られているすべてについて、自らを導き学ぶことができるものであること。

b) その学術書に含まれていることのすべてが可能な限り明晰かつもっともらしく提示されていれば、いかなる疑いや誤りも消え去るようなものであること。

c) 正しい推論を行う能力を成長させるものであること。

d) それまでになされた発見が、多くの新しい発見へと導くものであること。


ボルツァーノは、真理の領域全体を個々の個別の学問へと分割しているところの諸規則、これらを集めたものもまた、学と呼ばれて良いとします。ボルツァーノはこの諸学についての学を「学問論」Wissenschaftslehreと呼びます。というのもそれは、他の諸学をどのようにして提示するべきかを教えてくれる学であるからです。


こうして、ボルツァーノは学問論を、あらゆる真理の領域を個別の学へと分割し、それらを各々の学術書において提示する際に、われわれが従うべきところのあらゆる規則の集まりを意味するものとします。


すなわち、学問論の定義を簡潔に言えば、諸学の適正な学術書における提示を指導する学、ということになります。


以上が学問論の定義をしている『学問論』序論第1節の内容ですが、その後の序論第6節で、学問論は、別の名で「論理学」Logikと呼ばれているものとまったく同義とし、以降では省略して「学問論」の代わりに端的に「論理学」を同じものとして用いています。

非存在対象の指示の問題――分析哲学と現象学の起源としての――

今日は雨模様だし、研究室で作業していても、最近は外でやっているテニスの音がうるさくてストレスが溜まるので、おうちで作業することにした。なぜ何も無いのではなく、校舎の目の前にテニスコートがあるのか。

午前はデカルトに苦闘。午後は読みたい本でも読もうと、ジョスラン・ブノワの『対象なき表象:現象学分析哲学の起源』の序論をちょっと読んだ。

原題は、

Jocelyn Benoist, Représentations sans objet: Aux origines de la phénomenologie et de la philosophie analytique, Paris: Presses Universitaires de France, 2001

フランス留学時に購入し、いつか読もうとそのまま積んでいた本の一つである。もう15年前の本になるし、専門家にとっては常識であろうから、今更紹介するのも、という思いもあるが、日本ではまだあまり広く知られていないようでもあるので、周知と勉強を兼ねて一つ記事でも書いておこう。

目次は次のような感じ。

ジョスラン・ブノワ『対象なき表象:現象学分析哲学の起源』

 序論  非存在対象の問いと、現象学分析哲学の共通の起源

 第一章 ボルツァーノと非存在対象のパラドクス

 第二章 フレーゲ的迂回:指示の前提

 第三章 志向性論者による最初の解決:トワルドフスキー

 第四章 非存在の対象化:マイノング

 第五章 存在-論理的装置:マイノングによる二つの可能な批判

 付論  ブレンターノにおける「何か或るもの」について

 第六章 フッサールのトワルドフスキー批判

うーん、すでにすごく面白そうではないですか。とりあえず、序論について適当にメモってみませう。

ジョスラン・ブノワは『対象なき表象』において、指示の問題、とりわけ指示を欠くものについての問題に焦点を当てる。扱っているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけての論理学の哲学。そのアプローチは、議論の発展を描くものであり、フランス流の哲学史にきわめて特徴的なものだと思う。19世紀末における論理学の哲学の主要問題はまさに「指示の問題」であったわけだが、それは後の現代哲学を発展させることになった決定的問題である。

心理主義相対主義が跋扈していた時代にあって、哲学者たちは対象の領域を真に回復するべく取り組んでいた。20世紀への変わり目、そこにフレーゲフッサールが登場し、記念碑的著作が刊行された。(フレーゲの『算術の基礎』[1889]とフッサールの『算術の哲学』[1891]あるいは『論理学研究』第一版[1900-1901])。それぞれ、分析哲学および現象学の起源と目されるものであるが、両者は共通に、非言語的指示(心的指示)を問題にしていた。

ブノワは、ここに両派の共通の起源を見る。20世紀の哲学を構成することになる指示の問題は、「意味」の要素として対象が果たす役割や、対象へのアクセスに関する省察という点で意味論的な問いである。

さらにブノワは、20世紀思想を特徴付ける三種のシェーマとして、「表象/作用、意味/内容、指示/対象」があるとする。両派の起源が同一だとするのは、指示の客観性(対象性)を問題にしているということで、単純に扱っている問いが同一だから、というのではない。20世紀に生じた様々な流派の違いは、三種のシェーマを各々どう調整・解釈しているかという点に見られる、ある構造の変奏なのであって、このことは20世紀の哲学の異なる流派を整理するのに役立つことになるという。

本書が問題とするのは、このシェーマにおける第三の領域が空虚な場合である。すなわち、指示を欠き、対象がない場合、つまり「対象への指示を欠く」場合に意味の問題はどうなるのか。ブノワは、この問題に関する哲学史を発生学的に描こうとする。

ブノワは本書において、「指示対象を欠いても意味をもつ」といういわゆる《志向的対象のパラドクス》を、ボルツァーノにまで遡りラッセルまで下っていく。そこで扱われているのは、現象学分析哲学の起源および共通部分と考えられるものであり、両派の立場を決定するエンジンの役割を果たした非存在の問題が中心である。

ブノワによると、「非存在の指示」の問題は、はるかソフィストにまで遡るようだ。しかし、この問題が本格的な哲学的問題として立てられたのは、19世紀はじめのボルツァーノにおいてであり、彼によるカントの表象主義に対する批判に由来する。ボルツァーノの哲学は「意味論的客観性」の問題に焦点を当ており、そこで問題にされていたのは、対象的領域の対応がなくとも意味は統一性をもちうるというパラドクスである(ブノワはWissenschaftslehre[1837] §67を指示している)。それは、フッサールが『危機』§70でも述べた、「志向的対象のパラドクス」へと繋がって行く問題である。

こうしてブノワは非存在対象の指示の問題を、さらにフレーゲ、トワルドフスキー、マイノング、ラッセル、ブレンターノ、フッサールにおいて、それぞれ具体的に検討していく。

なお、ブノワは、本書と共に、本書と対をなす別の本において、志向性の限界、そして志向性論者の観点の限界について検討するとしている。その別の本とは、『フッサールの『論理学研究』における志向性と言語』(Intentionalité et Langage dans les Recherches Logiques de Husserl)であり、志向性の現象学的概念を論じるものである。『論理学研究』では、非存在対象の指示の射程、および指示の現象学的理論の外延が問題にされているようである。したがってこっちの本では、フッサールの『論理学研究』において、非存在対象の指示の問題を問うということであろう。これもおもしろそうですね。

やはり志向性の問題については、もっと勉強した方が良さそうです(あと、ドイツ語)。

The Leibniz Review、電子化されてた。

いつのまにか、北米ライプニッツ協会が出している雑誌、The Leibniz Reviewが電子化されていました。

次のリンクから最新三巻を除く過去の記事がダウンロードできます。

https://www.pdcnet.org/leibniz/free

よっ、ナイス電子化。

それにしても、執筆陣は豪華だし、レベルが高い。
論文、論文に対する評、そしてさらに著者のReplyを載せるという北米流のスタイルをとっているのも、議論の発展性がわかり、とてもよい。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(4) ――カッシーラーの哲学史の方法――

西洋思想史の授業準備のためにカッシーラー『認識問題』を第一巻から読みはじめる。その序文に、カッシーラー哲学史の方法について少し書いているのでメモ。

哲学史は、それが真に学問であるかぎりは、多彩に継起する事実を知るのを学ぶための収集品陳列室ではありえない。むしろそれは、われわれがこれらの事実を理解するのを学ぶための方法たらんとする。そのさい哲学史の支えになる原理が究極的には「主観的」であることは、もちろん真である。しかしこのことが意味しているのは、われわれの洞察がここでもまたわれわれの認識の規則と法則によって条件づけられているということにほかならない。ここにあるかにみえる限界は、見抜かれさえすれば克服される。すなわち、直接与えられた現象とその理論的解釈のための概念的手段がもはや無差別に溶融せずに、両方の契機が相互に浸透しながらも相対的に自立しているものとして捉えられさえすれば、そうした限界は克服される」*1

哲学史は事実の単なる陳列室ではない。哲学史そのものが、事実を理解するための方法である。哲学史が歴史的事実の解釈であるかぎりは、主観的であることを免れない。しかし、「直接与えられた現象」とその「理論的解釈」があくまでも互いに自立しているものとして捉えられていることが、独断論的、つまり悪い意味で主観的な哲学史にならないために重要だ、ということだろう。

カッシーラーが『認識問題』の序文に述べている哲学史の方法のポイントは次の3点である。

1. 概念形成の歴史的探究

「基本概念の形成を歴史的源泉そのものにそくして研究し、その概念の表現と帰結の個々の歩みをすべてこの源泉から直接に正当化すること」

2. 批判的観点

1によって個々の思想は歴史的に忠実な再現がされ、それと同時にある知的視野から把握されるが、その際、「批判の観点に立った入念な追試」を行うこと。

3. 思想的総合の必要

「個々の事実を結びつける内的統一が、これらの事実とともにおのずとじかに与えられるのではなく、つねに思想的総合によってはじめて創造されねばならない」

カッシーラーは自らの哲学史の方法を「序文」で触れてはいるが、それほどまで明確にはしていない。しかし、『認識問題』の内容そのものに、自らの哲学史の方法が反映されているということだろう。

補足

序文ではまだあまりに漠然としていたが、哲学史の方法に関する見解が「序論」でも少し述べられているので、もう少し補足できるかもしれない。

1への補足。「序論」で、カッシーラーは、単に理論の歴史を示すのではなく、概念の内的展開を描くことを掲げている。「認識理論の歴史は、認識概念の内的展開の姿を十分に伝えてくれない。われわれはある時代の経験的研究のなかに、その具体的な世界観や人生観の変転のなかに、その時代の論理的根本見解の革新を辿らねばならない」(p.6)。認識理論は思想運動の成果として出されたものを総括してくれるが、起源や動因を解明してくれるわけではない。カッシーラーは、体系的哲学として完成されたある哲学理論に関心があるというよりは、ある概念がそのような哲学理論に組み込まれるに至ったプロセスに焦点があるように思われる。

カッシーラーは後の箇所でも、「ある時代の知的な運動全体から、それを支配し促進する認識理想を再構成するようあえて試みることにしよう」と述べている(p.8)。これは、体系的哲学やそれに直接的に貢献した思想だけではなく、ある思想が形成された精神運動を全体として捉えようとすることであり、「経験主義」「合理主義」「批判哲学」のような安易な段階的分類は無意味でしかないという批判的動機もある。これは、それまでの体系的哲学理論重視の哲学史観に対する批判的観点ということで、2に絡んでくることかもしれない。

また、「認識問題」にテーマを限定したことについても触れている。認識問題の歴史とテーマを限定したからといって、それは哲学の歴史の一部分をしか描かない、ということではない。哲学の諸問題は入り組んでおり、そもそもテーマごとにきれいに分離できるようなものではなく、問題による分離は恣意的な制限にすぎない。「その[認識問題の]歴史はむしろ、哲学の領域全体をある一定の観点と照明のもとで叙述し、それによって近代哲学の内容をいわば縮図にして見せてくれるのである」(p.11)。

3への補足。「思考的総合」ということば が「序論」でも登場している。「精神の歴史とは、われわれが思考的総合によってそうした事実[歴史的現象]からつくるものにほかならない」(p.13)。「精神の歴史」はそこに事実として横たわっているわけではなく、われわれの思惟活動によって構成されねばならないものである、という強い意志がうかがえる。

小考

カッシーラーの言わんとするところは大体わかる気がするが、果たしてそれを誠実に実行するとなると、いろいろ難しいところはあるように感じる*2。とりわけ、歴史的現象とそれに対するわれわれの解釈や思考的総合の関係をうまくとって、どれだけ客観的なものとして哲学史を提示できるかというところに、方法論としてもう少し議論を詰める必要があるだろう。

カッシーラー哲学史の方法についての考えは、精神の運動とか思考的総合ということばに見られるように、ヘーゲル哲学史観が念頭にあると思われるが、あろうことかヘーゲルをそもそも良く知らないので、いずれまたこの問題に立ち返って考えてみたい。

*1:E. カッシーラー『認識問題1』、須田朗・宮武昭・村岡晋一 訳、みすず書房、2010、p. v

*2:カッシーラーのごとくさまざまな言語を駆使し、古今様々な文献を網羅できるかどうかという点で、すでに一般的な哲学史研究者が個人単位でもちうる人的リソースの限界を越えている気がする(遠い目)。