labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

卒論オリ。

新年度がついに本格的に始まった。一発目の仕事として、今日は卒業研究オリエンテーション。配布する資料を準備したり、論文の書き方本や、哲学の論文の書き方などを調べたりしてたら、あっというまに時間が過ぎていった。今年度も研究する時間をどう捻出するか、すでに危険信号が点った感がある。


実は、一般的な論文の書き方はともかく、哲学の論文の書き方については、これまであまりきちんと勉強したことがないことに今頃気づいた(汗)。といっても、いろいろ本や論文は読んでいるし、これまでの研究で自然と身に付いているはずである。と、こう思い込んでいるあたりが、一番マズイかもしれない。不文律で済ませている自分の方法論ほど、独善的でアテにならないものもまたなかろう。


もう少し自分に批判的である必要があるなあ、と思いパラパラ読んでいたのは、Wunenburgerらが共著で書いているMéthodologie philosophique(PUF, 2011)という本と、Lewis Vaughn, Writing Philosophy(Oxford U.P., 2006)という本。哲学系の卒業論文の書き方などについては海外のサイトでも有益なものがあるし、時間があればこうしたものを参照して、哲学の卒業論文マニュアルみたいなものを作ってみたいのだが、はっきり言ってそんな暇がないのが実情である。哲学の中でも分野ごとに方法論は異なるし、なかなか難しいということもある。ただ、ある程度共通了解みたいなところはあるはずなので、そこら辺を明らかにしてみたい。


オリエンテーションの後は卒論指導。卒論はうちの哲学分野の場合、基本的には個別指導なのだけれど、今年度は自分が担当することになった学生は4人となり、各自に割ける時間は例年より少なめになりそう。テーマはだいたい以下の通り。ヒュームの因果論、E. マッハの感覚の分析、ロックの性質論、シューメーカーの人格の同一性論。どれも研究での視野を広げる上で勉強になりそう。


論文の書き方関係の本は、今年度も、ウンベルト・エコの『論文作法』を一番にオススメした。自分が学部生のときに読んで、かなり刺激を受けた本。要求する研究のレベルはとても高いが、読んで本当にためになったと実感できたのは、今でもコレかな。


卒論指導後は明日の授業準備をしてほぼ一日が終わる。夜に少しでも遅れている原稿を進めておきたい。あっ、今日もチェロやる暇がない。

17世紀哲学・数理哲学史 関係のホームページ

午前は報告書を書いたり、書類を出したり送ったり。午後は授業準備を少し進める。哲学演習は野矢茂樹『論理学』をはじめて使用してみようかと思う。前原昭二『記号論理入門』を使いたかったが、数学アレルギーのある人文系の学生に考慮しなければならない気がしたので。ただ、これまでの授業レジュメをまた作り直さなくてはいけないので、また自分の首を自分で絞めることになりそう。西洋思想史は 冨田恭彦『観念論の教室』が後半に良さそう。読んでみたがバークリの観念論についてかなり詳しく書いてあり、とても面白い。積んでいたザハヴィ『初学者のための現象学』を少し読むが、こっちはあんまり面白くない。きちんとした説明なのだろうが、古くさい印象を受ける。論文も書かなくてはいけないが、筆が進まない。気分転換に、ファイルボックスを買ってきて研究室の書類整理。あんまり片付かない。おうちに帰ると、注文していたファイルボックス10箱が届いていたので、ここでも書類整理。留学から帰ってきて以来、5年くらい放置していた研究プロジェクトが、ようやく分類されていく。おれは一体今まで何をしていたのか。なぜ俺はあんなムダな時間を・・・。しかし、書類がラックに溢れ、片付くようで片付かない。もはやモノが多すぎるということに気づく。今日も研究をがんばろうとしたけど、別の仕事ばかりに追われて何も達成できない日だった。

ホームページ

それはともかく、試験的に運用していたホームページを公開することにしました。

labyrinthus imaginationis

このはてなダイアリーと同じ名前です(小文字だけ違う)。

留学時代から作りはじめていたものです。もっと充実したコンテンツができてから公開する予定でしたが、十分な時間がとれず、長らく放置していました。せめてプライベートなHPとしてもっと活用できていればよかったのですが、見ての通り、それほど使い勝手もよくありません。有用なリンクや資料の情報は集め出すとキリがなく、まったく先が見えなくなり、かえってモチベーションが下がることもありました。

それでも、初期近代・数理哲学史関連についての情報は、わりと充実しているのではないかと思います。とりわけ、ライプニッツをはじめとする初期近代哲学および数理哲学史関係をやりたい方には必見ではないでしょうか。

しばらくは初期近代の数理哲学史、数学と哲学の関係についての研究を中心にやっていこうと思っています。その中で、このホームページが研究活動を情報発信する中心的な場所になっていけばいいなと考えています。

今後のリニューアルに向けて、ホームページの活用を見直していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

ユークリッド『原論』の成立:数学の哲学からの自立についての考察。

今日はやたらと風が強く、一日雨模様なので、おうちで静かに作業。目の調子が悪く、疲労もあってほとんどはかどらなかった。息抜きに、読みたかった本を読んでいく。

斉藤 憲 著、『ユークリッド『原論』とは何か 二千年読みつがれた数学の古典』(岩波書店,2008)を第2章まで読む。非常に読みやすく、数理哲学史をやろうとする自分にとって、重要な指摘に満ちていた。ユークリッド『原論』の伝統は、哲学を考える上でも踏まえるべき点が多々あるように思われた(確信)。そこで、どういう点が重要だと思ったかについて、少しメモを残したい。

『原論』の内容についても多少触れてはいるが、それよりも『原論』の形式や特徴、後世における『原論』の受容と読解・議論を検討しており、「岩波科学ライブラリー」という薄くて手軽なシリーズの本ではあるが、わりと読み応えがあり、名著だと思う。

中でも関心を引いたのが、数学と哲学の関係に関する記述である。

著者は『原論』にプラトン的なダイアログ(対話法)の影響を大きく認める一方で、アリストテレスの影響には否定的である。(むしろ逆で、アリストテレスがすでに成立していた論証数学の影響を受けたのかもしれない)。プロクロスについても、『原論』の哲学的解釈を否定的に紹介しているように思われた。こういう数学的誤解からなされた数学の哲学的解釈がおキライなのかもしれない、と余計な推察をする。

プロクロスは『原論』第一巻についての膨大な注解を残したが、たしかに宇宙論に結びつけた哲学的な解釈が強く、『原論』の数学を必ずしも正しく理解していないところがある。

「数学に対する哲学の影響をあまりに強調すると、・・・プロクロスの正多面体の議論のような、確認も否定もできない主張になってしまいかねません」(17頁)

プロクロスはユークリッドより700年も後の時代の哲学者であり、すでにエレア派が問題にしたような運動による点や直線の定義は問題ではなかったのであり、プロクロスはそもそも運動そのものに問題を感じていないようである。それには、プロクロスが一者からの「流出」という運動概念を原理とする哲学を展開していることも理由としてあるかもしれない。ただ、指摘されるように運動概念を前提していてまったく問題にしなかった可能性もあるが、むしろ彼の哲学的帰結として運動概念を前提とする『原論』が非常に相性が良かったのかもしれず、また別の評価が哲学サイドからはなされうるとは思う。

数理哲学史の方法として、この指摘から学べることは、数学と哲学との関係を探究する際、数学的実践の検討を十分せずして、過度に哲学的影響を読み込みすぎてはいけないということである。また、有力な哲学的思潮が代わった場合の、数学と哲学の影響関係は興味深いテーマとしてある。ただ、プロクロスによる『原論』注釈が数学的誤解を含むものであるにせよ、哲学的魅力に満ちていることは疑いないので、哲学史としては哲学的側面をどのように評価するかということにかかってこよう。

「要請」は論証数学の確立の証拠であるが、ややこしい議論に巻き込まれないための予防線でもあった。エレア派の運動を否認するために「要請」がおかれ、そのエレア派に影響されたピュタゴラス派によって『原論』にみる論証数学のスタイルが確立した、とするザボーの説にも冷静に対処している。『原論』が「数学の議論の枠内で批判に対処していった」(24頁)というところに、数学の哲学および他の議論からの自立をみることができる。

証明の終わりに書かれる q.e.f. および q.e.d. についても、前者が「問題」の終わり、後者が「定理」の終わりにおかれることをきちんと説明している。現代ではまだq.e.d.は使用されているが、q.e.f.はもはや使われることはないように思うが、それには一体どういう背景があるのか少し気になった。

『原論』の論証スタイルをアリストテレスの『自然学』と比較し、「というのは」という後だしの説明スタイルを多用するアリストテレスの影響は、ドミノ倒しのように公理論的な論証の順序をとる『原論』の論証スタイルとは相違があるとして、『原論』や『ギリシア数学一般に対するアリストテレスの影響に懐疑的であるとしている。

たしかに、論証スタイルに関しては、分析をしていくアリストテレスと、総合をしていくユークリッドとのあいだでまったく異なるものがあるが、これらを横に並べて比較をして、論証スタイルが違うから影響関係がないとする理由がよくわからない。定義や公理などにアリストテレス『自然学』の影響は見られないのだろうか。あるいは哲学的議論をまさに遮断するための、反面教師のような影響を見ることはできないのだろうか。そこらへんの考察も期待したいのだが、数学内部で批判に対処する『原論』のスタイルでは分析が難しいということかもしれない。

斉藤は、ユークリッドの哲学的立場を問うこと自体が、的外れな問いだとする。『原論』では、要請による明文化によって、運動は可能かという論争とは無関係に数学的証明が展開される。すなわち、「定義・要請を最初に置くことによって、哲学的立場に影響されずに証明が展開できる」(40頁)。

「これがユークリッドの意図的な戦略だとすれば、哲学的問題には首を突っ込まないというのがユークリッドの立場であったことになり、彼の哲学的立場に関する問いは、問い自体が的外れということになります。彼の最大の功績は、数学とメタ数学を峻別し、哲学と独立な、数学の議論のための領域を確保したことにあるように思われます。」(40頁)

たしかに、数学に対する批判や哲学的解釈をあらかじめブロックすることで、数学の独立した領域を確保した点に、ユークリッド『原論』の成立の意義があろう。その通りだと思う。しかし、定義や要請としてどのようなものをおいたかというのは、かなり当時の哲学の影響を受けてのものであって、哲学的影響を完全に免れているということはしかし言えないのではないか。数学的体系の哲学からの自立はなされたかもしれないが、数学的理論の生成が哲学から独立するまでにはまだ至っていないということである。また『原論』はその後、その定義や要請、幾何学的証明のあり方などによって、後世の哲学者たちの多くにも影響を与えており、近世ではもちろんデカルトスピノザライプニッツなどの大哲学者たちに多大な影響を与えている。

おそらく数理哲学史として作業すべきことは、数学の内部での論証や議論がおよそ哲学とは切り離され独立したものであることを留意しつつ、数学と哲学の独立/依存関係をテキスト読解によって歴史的に解明していくことであろう。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(3)――ゲルーの哲学史の方法――


桜も散りつつあり、新しい季節の新鮮な気分からやや落ち着きを取り戻しつつある。そろそろ自己の体験に基づく主観的・独断的な哲学史の哲学に関する考察から離れて、より客観的な哲学史の哲学を徐々に展開していくべき頃合いであろう。といっても、哲学史の方法について書かれた論文やモノグラフを参考にするくらいしか、方法が思いつかない。

哲学史に関するゲルーの「構造の方法」

フランスの哲学史の大家、マルシャル・ゲルーが哲学史の方法について述べている論文があるので、まずはそれを参考にしたい。デカルトライプニッツスピノザなどを研究していて、ゲルーを知らない人はいないだろう。

[1] Martial Gueroult [1974] "La méthode en histoire de la philosophie", Philosophiques, 1 (1) : 7-19.
[2] Martial Gueroult [1979] Philosophie de l’histoire de la philosophie, Paris : Aubier Montaigne.


[1]の論文「哲学史の方法」は1970年のオタワ大学哲学部での講演原稿である。[2]の『哲学史の哲学』という著作は、その主題のもとに単著にまとめたものである。[2]は、昔に少しだけ目を通した記憶があるが、レジュメも見つからないしおそらくきちんと読んではいないので、まずは[1]にざっと目を通してみた。この講演をした頃、ゲルーはスピノザに関する著作を書いていたようで、まとめをご覧いただければわかるように、スピノザにかなり影響を受けた方法論が展開されていることを念頭に置いて読んだ方がよい。


ゲルーはそこで、哲学史家には、「哲学の水平な歴史」と「哲学の垂直な歴史」の二つの視点のあいだで選択があるとする。前者は、理論(学説)の展開、思想やテーマ・問題の変遷を歴史的に追っていく哲学史のもっとも正統な視点で、人間思想の生成を動的に見ていくものである。こちらのアプローチの利点は、卓越的に歴史的なところである。だが同時にそれは欠点でもあり、歴史の側面で得るものがある代わりに、哲学の側面を失う。後者は、より歴史的ではないが、学説の意味について哲学的な省察を目的にその固定と深化を重視するもので、哲学的である。それは、思想の集合的運動をそれほど気にかけない代わりに、各々の著作に込められた深遠な哲学的意義を追求するものである。


ゲル―は、この二つの視点に基づき、哲学史には二つの学派があるという。第一の学派は、資料と伝記による哲学史の方法の実践によって、歴史へのバイアスをとる方法をとるとする。そこでは、各々の哲学者がある時代に生じた出来事であるかのように扱われる。

ゲルーは、たしかにこの方法が不可欠であるとする。ある理論がどこで生じ、どのように展開したのかについての状況や、その時代で用いていた言葉の特有な意味や固有の問題などの文脈について知ることは、作品をきちんと理解しようと思うからには決して無視できないことだからである。

問題は、この方法で十分なのかということである。その理論がもつ独自性を過小評価しかねないリスクがあるし、それがもつ普遍的な射程を剥奪してしまうかもしれない。作品そのものよりもそれを書いた人や人生の歩みに関心が行ってしまいかねない。その意義は、元来の意図ほどには実現された理論のうちに探究されない。ただ、時代や場所、資料、影響関係を考察することは不可欠であるので、ゲルーはこの方法が予備的な考察としての位置づけはもつとする。


ゲルーが提起する第二の学派――それはゲルー自身が支持する方法でもある――は「構造の方法」(la méthode des structures)というものである。それは、著者の仮定的な内面性よりも著作の内面性を探究することを重視する。著者はもはや眼前にはおらず、その主観的な本来の意図は伺うべくもないのに対し、著作は眼前に客観的な対象としてあり、その分析はわれわれの手にかかっている。したがって、構造の方法とはまず何よりも「分析の方法」である。しかしそれは単なる分析ではない。それは、どうしてこのような概念的な配置やテキストの構成がなされたのであって、ほかではないのかを探究する。構造を示すだけではなくて、その構造がとられた「秩序の理由」(la raison de l’ordre)も問うわけである。したがって、構造の方法とは「理由の方法」でもある。例えば、スピノザの『エチカ』で言えば、その論証を分析することと、いくつかの可能な論証のうちでどうしてあちらではなくこちらが選ばれたのかを示すことは別の事柄である。こうして「諸概念の建築術」を知ることは、その理論のもっとも深遠な意図にしたがって概念そのものを知ることになるのである。

まとめ

まとめると、ゲルーの言う哲学史における「構造の方法」とは、ある哲学者の理論について、それが主張された著作の理性的構成」(la construction rationnelle)、すなわち諸概念の建築術と諸概念の論理的な繋がりを分析することで、著作が内面に秘めている哲学性――ゲルーは哲学が、ディルタイの言う「世界観」(une vision du mode; Weltanschauung)としてあるというよりも、「概念の世界」(un monde de concepts; Gedankenwelt)として定義されるべきであると考えている――を明らかにするものであろう。


このように、ゲルーはある種の「構造主義」的な哲学史の方法を提起している。ゲルーは、この「理性的構成」が、厳密な論証に基づいて確実な知があることを真理認識として課しているのであって、その意味で哲学は詩や宗教などよりも科学に極めて近いとする。哲学的な体系と科学の体系はむろん異なるが、問題を解決するという点では同様である。哲学は問題を立てたらその解答を与えねばならず、その解答は、数学のように、定理というかたちで論証されねばならないものなのである(スピノザ幾何学的方法)。すなわち、ゲルーにとって哲学史とは、哲学的著作がもつ諸概念の論理的な連関を解明し、それによって哲学者がもつ「概念の世界」を理解する、一つの科学的な営為なのだ。

考察

前半は、まず哲学史の2つの方法が紹介される。一つ目は、哲学史を横軸にとった時間の進展に沿って哲学史上のある学説やある問題の発展史を研究する方法である。もう一つは、ある時点を串刺したものを縦軸にとってある著者の特定の作品を深く掘り下げて探究する方法である。前者は歴史的にすぐれているが哲学的な分析が浅くなりがちで、後者は哲学的に深いものとなるが歴史的には視野がせまくなりがちである。これらは理念的に分離して語られているが、おそらく互いに相補的な二つの局面であって、いずれも哲学史の方法としては不可欠なものであろう。

後半は、2つの学派が紹介される。一つ目は哲学者本位の哲学理論の形成史・発展史を重視する学派である。ゲルーは著者に注目して哲学史の中にその哲学思想を位置づけることは不可欠な作業であることを認める。しかし、著者が哲学史を語るわけではなく、あくまでわれわれはテキストを考察対象としなければならない。そこで重要になってくるのがテキストの分析手法であるが、ここでゲルーに独自な第二の学派として唱えられるのが「構造の方法」である。「構造の方法」とはテキストの「分析の方法」のことでもあり、それは著作で用いられる主要概念の連関やテキストがそのように構成された理由、すなわち「概念の建築術」や「秩序の理由」を問うものである。したがってそれは「理由の方法」でもある。

ゲルーは晩年、スピノザ研究を行い、『エティカ』の構成に沿った注釈・研究書を1968年(第1巻)、1974年(第2巻)に出している。エチカの各巻に対応する続巻を刊行するはずであったが、死によって未完に終った。論文はその影響を受けてか、終盤に行くにしたがい、スピノザが『エティカ』でとった幾何学的方法と、構造主義哲学史への応用を融合したような感じで議論が展開されている。ゲルーがこのような構造主義的な哲学史の方法で目指すのは、著者がその著作にこめた「概念の世界」、すなわち諸概念のあいだの論理的な連関を解明することである。

ゲルーは、諸概念の論理的な結合に科学的な厳密性、そし分析により「概念の世界」を解明するところに哲学性を見ている。諸概念の構造的連関は、さらにその時代の歴史的コンテキストと結びつけられることによって歴史性も確保されよう。この意味で、ゲルーの哲学史の方法は、歴史性と哲学性の双方を組み込んだ哲学史の科学的な方法論としてあり、哲学史の誠実かつ精密な方法として同意できるところが多分にあるように思う。

しかし、ゲルーが主張する構造主義的な哲学史は、かなり厳しい厳密性の基準を哲学史に要求しているようにも思われる。しかも、厳密性についても、諸概念の配置の解明がどこら辺までテクニカルな作業となりうるかは、ゲルーはまったく明らかにしていない。それはスピノザ幾何学的方法と同様に、みかけの形式性に惑わされて、実際にはあやしい建築物となる危険性も孕んでいる。こうなると果たして、このような哲学史の数学的方法が本当に存在し得るのかすら、私には良く分からなくなってくる。ゲルーは果たしてそのような構造の方法に基づいた哲学史のサンプルを実際に築くことができたのだろうか?ゲルーのスピノザ本はそうなっているのだろうか? ゲルーの方法論の応用が果たして成功したのかどうか、別個の検証課題である。

ともあれ、ゲルーがここで行っているのは、まだ一般的な方法論として定着する前の段階での、構造主義哲学史への先駆的な応用であり、テキスト(フーコー的に言えば言説空間となろうか)の構造研究を優位とする哲学史のより客観的・科学的な手法を模索した点を評価すべきなのであろう。

ここでわかることは、哲学史の方法とて、その時代の先端をいく哲学理論と密接に結びつけて考察するべきであるということである。われわれの時代の精神と結びついた哲学史の方法とは何であるのか、ということが問われねばならないのだろう。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(2)――古楽とのアナロジーを通じて――

最近、また毎朝6時に起きて、NHK-FMの「古楽の楽しみ」を聴くのが、一日のはじまりの日課となった。

昔、都内の予備校に通うべく朝早く起きるために、たまたま目覚まし代わりにラジオ番組「朝のバロック」を聴きはじめた。これが、バロック音楽に関心を持ちはじめたきっかけである。その後、同時間帯の番組はタイトルが「バロックの森」に変わったが、しばしば聴いていた。

それまで、バロック音楽をはじめとして、現代的な楽器編成によるクラシックの演奏に慣れ親しんでいた自分にとっては、音楽の歴史的時代背景やコンテキストに可能な限り忠実に演奏しようとする古楽の演奏は、極めて新鮮なものがあった。それは新たな発見であり、新奇だが音楽的な魅力がイマイチよくわからない現代音楽よりも、現代的であった。

金澤正剛は『古楽のすすめ』に次のように書いている。

古楽現代の音楽では、いろいろな点で根本的に異なることが数多くある。過去の音楽を今日の常識で判断すると、とんでもない誤解を生じる危険性も少なくない。古楽の楽しみを十分味わうためには、古楽の常識をわきまえておくことが大切である」(金澤正剛『古楽のすすめ』、音楽之友社、2010年、17-18頁)

ここでの古楽や音楽を「哲学」に当てはめてみたとしても、まったく同様のことが言えるのではなかろうか。

過去の哲学を安易に今日の常識で判断してしまうと、とんでもない誤解を生じる。哲学史はまさに、そうした知的不誠実を正すべく、きちんと時代のコンテキストに向き合いつつ、過去の哲学諸説の正しい理解を目指すものであろう。

哲学史は、過去の哲学的遺産である。しかし、そうした哲学的遺産を、単なる過去の遺物として提示するのは哲学的ではない。正しい哲学史的理解が、現代的な意義そして未来への提言をもたらしうるように、哲学史を通じて新たな哲学的発見を探究する分野としてあろう。

金澤は続けて次のようにも述べている。

「もっとも、現代人が過去の音楽を、自分なりの解釈に基づいて新しい作品に変容させてしまうことは、決して悪いことではない」(同、19頁)

これも、音楽を哲学に当てはめても同様のことが言える。すなわち、過去の哲学を現代的に解釈することは、決して悪いことではない。ある過去の哲学が、現代の何らかの理論の先駆けになっているという指摘は、確かに現代に生きるわれわれにとって、親しみやすくたいへん魅力的なところもある。

しかし、そうした現代的な解釈は、哲学史的な理解にとってはそれほど意味をもたず、また誤解の可能性に満ちている。それは確かに、現代的なコンテキストの中に埋め込み、ある哲学説の重要性を示してくれる。過去の哲学が現代・未来へと発展して行った一つの方向性を示してくれる。他方でそれは、より豊穣であったはずの起源としての哲学の発展の可能性を限定し、ある特定の解釈へと狭めてしまう側面もあることを、哲学史そのものが教えてくれる。哲学説が形成された歴史的コンテキストを無視し、都合の良いところを断片的に切り取ってくるだけでは、哲学史を正しく理解することにはならないのである。

「つまり、古楽を現代風に表現することは自由である。そのような演奏にもまた素晴らしい芸術的表現を期待することも十分できる。しかし、古楽の本来あるべき姿を忘れてしまってよいものであろうか。古楽を正しく理解するためには、それを生み出した人々の心へ戻ってみる必要があるのではなかろうか。」(同、20頁)

また、哲学史への「誤解」こそが新たな哲学を生んできた、という哲学史的事実があるからといって、テキストの綿密な読解や歴史的コンテキストは無視して哲学史を自由に誤解してもかまわない、と開き直ってよいことにはならない。一部の現代思想系にしばしば見られる風潮であるが、日本にはとりわけこうした反知性主義的な哲学史の理解がはびこっているように思う。新たな哲学的洞察やアイデアを得るための源泉として哲学史があることと、哲学史を正確に理解するということは、根本的に異なるもので、混同してはならない。

哲学史を現代の目から見れば、それだけで哲学になるのか?というと、そういうわけでもなかろう。戸田山和久氏が『哲学入門』でも指摘するように、これまでのディシプリンとしての哲学が、あまりに哲学史的アプローチに偏ってきた、ということも問題がある。現代の諸科学・諸理論のなかには、まだまだゴロゴロ哲学的問題があり、哲学研究者はそれらを無学のゆえに無視しがちであり、それらを扱う方がより生産的な側面がある、ということは確かにあると思う。

私自身、哲学史ではなく哲学の研究室の出身であり、歴史そのものではなく哲学することに関心があり、哲学史研究の意義について確固たる確信をもってやれているわけではないし、ぶれない意志をもって哲学史を研究できているわけではない。

ただ哲学として、哲学史をまったく無視してよいか、というとそういうわけでもなかろう。素直に告白すると、哲学史をやっていると、過去のテキストを読むだけで手一杯で、現代の議論を追っていくような時間と労力は見込めそうにない。同様に、現代哲学をやっていると、現代の議論を追って行くだけで手一杯で、哲学史もきちんと踏まえるだけの時間と労力が見込めないというだけのことではなかろうか。

「思うにわれわれ現代人は、古楽を含めて過去の芸術的遺産を、現代の目からしか見ていなかったのではないだろうか。それらの芸術的遺産の真実の価値を知るためには、それを産み出した芸術家たちの心になりきってみる必要性があるのではないだろうか」(同、20頁)

思うに、古楽が現代においてようやく、古楽が産み出された当時代の文脈にきちんと向き合おうとしている段階であるように、哲学史もまた、これまでなしてきた哲学史の都合のよい現代的解釈に対する反省を通じて、ようやくそのような段階に達したように思われる。現代的な解釈もまた、過去の哲学の価値を知るためには不可欠である。むしろ、現代に生きるわれわれの方が、過去の哲学をその時代における価値以上に、正当に評価し、知ることができる。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(1)――まず自らの哲学史研究を反省する――

哲学史の哲学、哲学史の方法論について、自分なりに考えてみたい。まだ十分に考えを練っているわけではなく、まだ模索段階であるし、断続的にならざるをえないであろうが、ご容赦願いたい。私もまだ哲学史研究者の駆け出しのペーペーにすぎない。しかし哲学史研究者のハシクレとして、「哲学史」そのものについて多少とも考える時間をつくるべきだろう。

哲学史」といっても、分野ごとのたこつぼ的状態になっていると思われるので、およそ哲学史の一般的方法論なんてものを模索するのは単なる夢物語かもしれない。たとえば体系的著作のあるカントにはカントの業界の流儀があり、体系的著作のないライプニッツにはライプニッツの業界の作法があろう。よくある他分野批判は、一方のモノサシで他方を測ることでなされるが、他方について無知である場合、生産性のまったくない不毛な議論になりかねない。余計な喧噪にはかまわず自分の分野に閉じ籠もって専門性を磨いていった方が、生産的な面も確かにある。しかし、学問において、普遍性を目指す試みも忘れてはならない。哲学は、その意味では普遍的な知を目指す傾向が他の分野に比べもっとも強い学問であるし、ある統合的知性には哲学史の知識が不可欠であろう。例えば、ある哲学理論があったとして、それをこれまでの哲学の歴史のなかに位置づけることができなければ、その哲学理論の意義を理解することはできないからである。

ここでは哲学史について哲学するが、果たして各人が「哲学」として理解しているものにかなっているかどうかはわからない。私のように17世紀という時代を研究するものにとって、「哲学」ということばを発するにはかなり高いプレッシャーを強いられる。私も哲学者であるという自負を持ちたいのであるが、サンプルが天才の世紀の人物たちだけに、うかつに自分を哲学者などとは言えない。しかし、そうすると哲学ということばを使えなくなってしまうので、ひとまずは哲学ということで、「省察」ないし「考察」程度のゆるい意味でご理解いただきたい。哲学史について、その思考の痕跡を何でもいいから残す、という動機で書いていくものである。つまり、あまり期待せずに、温かい目で見てもらいたい。

まずは哲学史の方法についての主観的かつ独断的な分析からはじめたい。客観的で公正な哲学史の方法について模索するのは、まだ次の課題で、何の準備もまだできていないからである。

自分の専門は、西欧17世紀の数理哲学史である。数理哲学史とは、数学と哲学の相互交流を歴史的に明らかにしていくものだ。分野・ディシプリンに関しては、いちおう哲学の中での哲学史に属する。数理哲学史は、数学史との差別化もはかっている。数学史が数学理論の発展史の中でその時代の数学的実践に注目するのに対して、数理哲学史は必ずしも数学的発展には貢献せず数学的関心からも数学史に登場してこないような、哲学サイドの数学論も考察の対象とする。たとえば17世紀の哲学者は多くが、同時に数学者であったり、数学について述べているわけだが、彼らの哲学思想の中での数学論や、数学の発展が彼らの哲学思想にどのような影響を与えたのかなどについて研究する。研究によっては、数学史により偏る場合もあれば、哲学史により偏る場合もあろう。したがって数理哲学史の方法は、数学的知識と哲学的知識のバランスが問題になるし、一般的な哲学史の方法ともまた異なる特殊な部類に入るかもしれない。数学の哲学は、哲学の発展から見ればその中核的な部分に入ると思うが、数学の素養と哲学の素養が要求されるし、この専門分化した時代に両方の専門家になるというのは極めて難しい。歴史的にやるにしても、時代によっては語学的なハードルが高いため、いかんせん時間がかかる。専門家になったところで、大学にポストはなく、定職は確約されない。哲学はたいてい人文系の学部に属すが、(運良く前任者が数学の哲学を専門にやっているのでもないかぎり)人文系学部の哲学コースに数学の哲学を専門とするようなポストがあるわけではない。哲学や思想史の授業に数学的なことを少しでも盛り込もうものなら、数学の苦手な人文系の学生は戸惑うばかりであろう。このためか、日本だとまともにやっている研究者はほとんどおらず、世界的に見ても極めてマイナーな分野である。自分も大学では、一般的な哲学の入門的講義や近・現代のざっくりとした西洋哲学史の授業を主な仕事としている。なので、数理哲学史の方法はひとまず置いておいて、まずは哲学史一般の方法について模索していきたい。

哲学史の方法」を主題として単著や論文という何かきちんとした形で残している方は、それほど多くないのではないかと思われる。自分とて、自分が考えている哲学史の方法を明文化したことはおそらく今までになく、あっても簡単なメモ程度のものであろう。おそらくたいていの方がそうだろうと思うが、私自身、哲学史の方法論をきちんと確立してから哲学史研究に臨んだわけではない。これまでに大学や大学院、留学時代に受けた授業や、哲学史の研究書や原典を読みつつ、デカルトライプニッツを中心とするこれまでの哲学史研究から慣習的に、なんとなく自分にフィットした研究スタイルを形成してきたにすぎない。

ただ、自身の研究を振り返るに、当初から比べると哲学史に対する意識やスタイルがずいぶん変わってきているのではないかと思う。学部時代は語学的制約から英語の論文を読むことが多く、分析哲学の影響の強い英米圏のライプニッツ研究から方法論を学んできた。分析哲学は、専門的に研究するには十分なサーベイをしなければまったくついていけないし、議論における頭のキレやセンスがものをいう恐い分野であるが、少なくとも入門部分は仮定される知識も少なく、明快に書かれた良書も多く、論理学の初歩でも身に付いていれば、アクセスが容易である。哲学は頭の良さが勝負なところがあるが、論理的分析や哲学的読解のスキルは、訓練である程度までは身に付くものである。学部生時代は、石黒ひで先生の『ライプニッツの哲学』や飯田隆先生による『言語哲学大全』やクワイン分析哲学の影響を受け、分析哲学系のはやりのテーマと結びつけて、哲学史を研究する傾向があったように思う。大学では哲学科に所属していたが、日本ではめずらしく論理学や集合論の授業があり(海外では当たり前だが)、それらを受けたことから、数学という学問に対する関心が芽生えた。現象学にも関心があり、フッサールも授業や勉強会で読んで、綿密なテキスト読解を通じて得られる理解の喜びも味わうことができたが、分析系の議論の明晰さや論理学の証明の厳密さにより学問としての魅力を感じた。

しかし、学士入学で遅れて哲学という分野に飛び込んだ私にとって、現代では数学者に等しい論理学者になれる自信もなく、ほぼ同時期ではあるが、フランス語圏のライプニッツ研究や数理哲学史的研究にも関心を払っていた。ラッセルは確かに明快であるが、彼よりもクーチュラの綿密なライプニッツ研究がすぐれていると思ったし、好みであった。卒論はクーチュラの影響で、ライプニッツの論理学に関するテーマで書いた。ベラヴァルの『ライプニッツデカルト批判』は、大学院時代の愛読書であった。フランスのライプニッツ研究は、一方で広範な哲学史的教養を踏まえ、他方で綿密なテキスト・クリティークを行い、そこから哲学的意義や展望を与えるというところに定評があるように思う。哲学史研究が哲学的面白さをもつところにまで到達している印象をもった。ライプニッツはドイツ人だがフランス語で多く書いたし、ドイツよりもその点では有利である。英語やドイツ語は自分で勉強してもなんとかなるだろうが、フランス語は苦手だったので、これはもう現地に留学するしか身に付ける方法がないと思い、フランスに留学した。

留学したのはエクサン・プロヴァンスとう南仏の風光明媚な街で、数学的エピステモロジーの代表的研究者Gilles-Gaston Grangerがかつて在籍していたところである。そこにはズバリそのもののEpistémologie専攻が開設されており、私はその修士課程に在籍した。私が留学したときにはGranger氏はもう退職されていたが、弟子のAlan Michel先生(積分論・測度論のエピステモロジーが専門)がおられ、指導教員となってもらった。今はソルボンヌに移られたが、ライプニッツ研究者であるJean-Baptiste Rauzy先生もおられたことが、エクスに留学をした決定要因である。彼の主著『ライプニッツの真理論―論理学と形而上学の観点から』は、分析系の言語哲学をも踏まえながら、古代や中世・近世の哲学史の背景もおさえて、ライプニッツの論理学と形而上学の関係を明らかにしていくスタイルで、圧巻である。Rauzy先生にも指導教員となってもらった。留学資金もなくなりかけたころに、論理学の哲学が専門のCrocco先生がオーガナイズするゲーデルの遺稿研究のグループに入れてもらい、ライプニッツゲーデルの関係に関する研究でCNRSの非常勤研究員にやとってもらった。その後、運良くポスドクにも採用してもらった。予算がなくなり、研究員の身分もなくなって、今後どうするか困り果てていた頃、ソルボンヌに移られたRauzy先生に呼んでもらい、パリ-ソルボンヌ大学(パリ第4「概念と言語」)の博士過程に登録した。ただほぼ同時期に、応募していた大学から採用の知らせがあり、ソルボンヌに籍だけは残したまま、日本に帰国することになった。わずか三ヶ月のパリ滞在であったが、カルティエ・ラタンやビブリオテーク・ナショナルで日中は研究をして過ごし、休日は美術館や博物館をめぐり、世界からパリにやってくる研究者たちと交流をする、極めて充実した期間であった。

なぜかつらつらと自分の研究史を述べてしまったが、「哲学史」に対する自分のスタンスを知る上で、反省する必要があったからである。まだまだ経験は浅いのであるが、5年強のフランス留学経験を踏まえて日本と西洋の哲学史研究に関する私の所見を言えば、写本や草稿から起こして、受け継がれている文献研究・歴史研究のノウハウを武器に、文化的背景や言説空間を踏まえ、マルチな言語能力を駆使して(そもそも母国語だったりする)成果を発表するスキルを目の当たりにして、日本で研究しているだけだと西洋の水準ははるか遠い距離にあることを肌で実感した。

むろん、日本の哲学史研究者にも、ヨーロッパの国際的な哲学史研究者のレベルに達している方もいるだろうし、すぐれた業績もあると思うが、一般的なレベルは、ヨーロッパの研究水準の高さと徹底ぶりと比べると、あんまり参考にならないのでは、という気がしている。少なくとも私が観察してきた限りでは、出版されている研究書や学術書の段階でかなりの乖離がある。日本では入門者向き・一般向きに書かれたすぐれた本ばかりが目立つが、本格的研究はあまり出版されない。フランスだと入門レベルの本でも、さすがに哲学の国だけあってかなり水準が高く、質・量ともに圧倒的である。これはもはや、哲学が社会に受け容れられている位置づけに起因する、乗り越えられない文化的な壁であると思う。

周知のように政府による国立大学の人文社会系に対する予算の大幅削減という追い打ちもあり、哲学・思想系の後任人事が凍結・廃止される傾向のなか、哲学史研究を継続・発展させる研究基盤そのものが先細りしてきている。日本は明治以降、西洋文化の受容に積極的に努め、西洋哲学に関しても飛躍的に吸収され、独自な哲学文化を育み得るところまできたが、大戦期や戦後にそれを継続・発展していくという努力を国家レベルで怠ってしまったのではないかと思っている。海外からも一目置かれるような、オリジナルな哲学文化の形成にはまだ至っていないのではないか。

人文系学問に対する無理解的批判が席巻する今日の風潮の中で、およそ社会の実利的側面に貢献しないと思われている最たる学問である、哲学を研究する意義もまた問われている。そのような中で、哲学における哲学史の位置づけも問われ、哲学史研究の哲学に対する意義を考察するワーキング・グループが立ち上がっており、まだ本格的な活動は始まっていないが、私もメンバーとして参加している。

自分も、数学と哲学の交流を歴史的に考察する「数理哲学史」という分野の立ち上げ・再興を企図しており、「数理哲学史」の方法をずっと模索しつづけている。数学と哲学の関わる部分、ここが哲学史の核だとさえ思っている。実際、近代科学・近代哲学の礎を築いたデカルトライプニッツらは言うまでもないであろうし、現代哲学の主要潮流を作った哲学者の多くが、数理哲学から出発している。ただ、やはり数学と哲学と歴史という3つの要素を、西洋諸言語の理解を踏まえて扱うというのはそれなりにかなりハードであり、非常に苦労している。見本となりうるまとまった成果を自ら出さねばならないが、現状ではいつそうしたことができるか見通しが立っていない。

参考にしているのは、フランスで培われてきた「数学的エピステモロジー」の手法である。私は2006年9月から2011年3月までフランスに5年半留学し、数学と哲学・学問的認識論を綜合的に考察する「数学的エピステモロジー」について、多少とも本場で触れてきた。この分野では、数学者でありかつ哲学者であったJean Cavaill`esやAlbert Lautmanを皮切りとして、古代からデカルトやカントに関する数理哲学を展開したJules Villemin、そしてその伝統を受け継ぐGilles Gaston Grangerらが代表的である。翻訳がまだないが、数学と哲学それぞれの要素を踏まえているLéon Brunschvicgの『数理哲学の発展の諸段階』Les Etapes de la Philosophie Math'ematiqueが、この分野への恰好の入門であるかもしれない。現在のフランスでも、往年の勢いはなく衰えてきているとは思うが、Hyoura SinaceurやJean Petitot、M. Salanskis、G. Heinzmann、Marco Panza、Jean-Pierre Belna、Jacqueline Boniface、若手ではDavid Rabouinなどがおり、まだ「数学的エピステモロジー」の系譜は続いている。いずれ近いうちに、数理哲学史研究の範となりうる古典の翻訳を手がけなければならないだろう。

「数学的エピステモロジー」では、ある数学的概念や数学理論の発生を、当たり前だがきちんと数学的内容の把握を踏まえた上で、哲学史・数学史のコンテキストで考察する分野である。〈数学的〉エピステモロジーとわざわざ「数学的」を冠して言ったのは、フーコーやカンギレム、そして現代フランス思想を介して日本で流布しているところの、フランスの「エピステモロジー」(科学的認識論)とは、研究対象に向かう意識や方法論が異なるように思うからだ。ただ源流としては、数学的エピステモロジーも科学的認識論も同じだと思う。日本にも、ごく少数であるが、数学的エピステモロジーを研究している研究者がいる。いずれにせよ、数理哲学史研究の基盤を確立することが急務である。

話を哲学史一般に戻そう。
以前、私の恩師でもある故・小林道夫先生が責任編集した『哲学の歴史』(中央公論社)のようなものは、これからはもう出版できないだろうという見通しを、とある先生(小林先生本人だったかもしれない)から伺ったことがある。哲学史をそもそも研究する人員が減っていくことを踏まえてのことだと思うが、あるいは何かもっと本質的な問題を示唆してのことだったのかもしれない。自分もまた、哲学史研究の将来は、見通しが暗いという認識がある。

そのような中で、哲学史研究はどうあるべきかについて、自分でもはっきりとした意見をもってみたいと思っているし、確固とした方法論をもって、哲学にとって意義のある哲学史を研究したいと考える。

次の研究課題。

今日から新年度。いろいろなことが終わり、いろいろなことが始まって行く日だ。形式的には。しかし、形式が実質を伴うときもある。

友人や知人の朗報を、いくつか間接的に聞く。たいへん悦ばしい。反面、依然として人文科学・哲学への将来的に明るい展望は、現状では見えてこない。目先の不安を見る賢くて優秀な人材ほど大学を去っていく。
せめて何か研究面で明るい話題を提供できればいいのだが、研究に時間と労力を十分つぎ込めない自分の力では現状を打破できず、その位置にまだ立ててすらいない。ここ数年は、ただいたずらに齢だけを重ねてゆく絶望感がある。

ここのところずっと忙しくてすっかり忘れていたが、更新を停止しているツィッターを覗いているうちに、今日は科研費の交付内定があるということを思い出す。
いつのまにか、桜も咲いちゃっているし。

前回採択された若手Bは、自己評価としては未だめぼしい研究成果もないまま、昨日をもって期間が満了。今年から40代に突入してしまったので、昨年10月にあった科研費の公募には、基盤Cで応募した。これで公式に、もはや「若手」ではない。いろいろと言い訳のきかない年齢になってしまったし、もっとしっかりしないといけないのだが、スーツを着ようが、ヒゲを生やそうが、いまだに学生と間違えられてしまう。何かが根本的に足りない気がしている。

応募した研究課題は、「抽象の問題を軸とした初期近代における数学と哲学の相互交流に関する数理哲学史的研究」。3年で成果を出すには自信がなく、4年はちょっと中途半端だし、きちんと成果を上げるための十分な余裕が欲しいので、期間は5年間で応募した。申請額の満額で採択されることはなく減額して採択されるので、申請額はMaxで応募した。

課題の性質上、競合相手がおそらくいないせいか、今回も無事採択された。評価いただいた審査員に感謝したい。申請書の作成には、思ったより時間がかかった。しかし十分練ったので、なぜか通過するという確信をもって出せた。直接経費は申請額の7割。間接経費を合わせた全体だと、申請額の9割強。国際シンポの計画も盛り込んでいるので、その際はどこか別のところから予算をとってくる必要がありそうだ。

ほっとしたような気もするが、またしばらく忙しくなるし、現代的な研究への移行はまたしばらくお預けかと思うと、安堵してもしょうがない。研究しようとするものにとっては、基盤Cは通過して当たり前らしい。実際、通過しないと大学の運営交付金からいただいている教育研究費からは、海外出張すらままならない。今年度は教育研究費がまた大幅に減額されるとすでに通知されている。コースで契約している雑誌などを解除していかなければ、教育に回す経費も十分に捻出できなさそうな状況だ。

これで通らなかったら、しばらくライプニッツや近世哲学の研究からは離れて、基礎を磨くべく、数学と語学の勉強に引きこもり、やりたいと考えている数学の哲学や歴史の研究に没頭しよう、と考えていた(落ちたときの予防線かも)。落選を同時に期待することで、採択はわりとどうでもよいというところまできて、そして科研費のことをいつしか忘れた。

とにかく、やりたい研究をやるという楽しみがすべてであり、それに尽きる。
今年度以降も、研究・教育・学務そして人生をいかにして両立していくべきか、いろいろストレスを抱えながら生きていくのだろうが、そうした中でいかに高いモチベーションを維持して、研究を継続していくかが問われるだろう。

自分のやりたい研究をみつけられたら、全力で遊ぶべきだろう。全力で遊べる研究をみつけられたら、研究者になるべきだろう。研究者になれれば、自分のやりたい研究ができるだろう。そのように思わせることのできる、知的に豊かな文化を尊重する社会であってほしい。