labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「哲学史の哲学」研究に向けてのメモ(2)――古楽とのアナロジーを通じて――

最近、また毎朝6時に起きて、NHK-FMの「古楽の楽しみ」を聴くのが、一日のはじまりの日課となった。

昔、都内の予備校に通うべく朝早く起きるために、たまたま目覚まし代わりにラジオ番組「朝のバロック」を聴きはじめた。これが、バロック音楽に関心を持ちはじめたきっかけである。その後、同時間帯の番組はタイトルが「バロックの森」に変わったが、しばしば聴いていた。

それまで、バロック音楽をはじめとして、現代的な楽器編成によるクラシックの演奏に慣れ親しんでいた自分にとっては、音楽の歴史的時代背景やコンテキストに可能な限り忠実に演奏しようとする古楽の演奏は、極めて新鮮なものがあった。それは新たな発見であり、新奇だが音楽的な魅力がイマイチよくわからない現代音楽よりも、現代的であった。

金澤正剛は『古楽のすすめ』に次のように書いている。

古楽現代の音楽では、いろいろな点で根本的に異なることが数多くある。過去の音楽を今日の常識で判断すると、とんでもない誤解を生じる危険性も少なくない。古楽の楽しみを十分味わうためには、古楽の常識をわきまえておくことが大切である」(金澤正剛『古楽のすすめ』、音楽之友社、2010年、17-18頁)

ここでの古楽や音楽を「哲学」に当てはめてみたとしても、まったく同様のことが言えるのではなかろうか。

過去の哲学を安易に今日の常識で判断してしまうと、とんでもない誤解を生じる。哲学史はまさに、そうした知的不誠実を正すべく、きちんと時代のコンテキストに向き合いつつ、過去の哲学諸説の正しい理解を目指すものであろう。

哲学史は、過去の哲学的遺産である。しかし、そうした哲学的遺産を、単なる過去の遺物として提示するのは哲学的ではない。正しい哲学史的理解が、現代的な意義そして未来への提言をもたらしうるように、哲学史を通じて新たな哲学的発見を探究する分野としてあろう。

金澤は続けて次のようにも述べている。

「もっとも、現代人が過去の音楽を、自分なりの解釈に基づいて新しい作品に変容させてしまうことは、決して悪いことではない」(同、19頁)

これも、音楽を哲学に当てはめても同様のことが言える。すなわち、過去の哲学を現代的に解釈することは、決して悪いことではない。ある過去の哲学が、現代の何らかの理論の先駆けになっているという指摘は、確かに現代に生きるわれわれにとって、親しみやすくたいへん魅力的なところもある。

しかし、そうした現代的な解釈は、哲学史的な理解にとってはそれほど意味をもたず、また誤解の可能性に満ちている。それは確かに、現代的なコンテキストの中に埋め込み、ある哲学説の重要性を示してくれる。過去の哲学が現代・未来へと発展して行った一つの方向性を示してくれる。他方でそれは、より豊穣であったはずの起源としての哲学の発展の可能性を限定し、ある特定の解釈へと狭めてしまう側面もあることを、哲学史そのものが教えてくれる。哲学説が形成された歴史的コンテキストを無視し、都合の良いところを断片的に切り取ってくるだけでは、哲学史を正しく理解することにはならないのである。

「つまり、古楽を現代風に表現することは自由である。そのような演奏にもまた素晴らしい芸術的表現を期待することも十分できる。しかし、古楽の本来あるべき姿を忘れてしまってよいものであろうか。古楽を正しく理解するためには、それを生み出した人々の心へ戻ってみる必要があるのではなかろうか。」(同、20頁)

また、哲学史への「誤解」こそが新たな哲学を生んできた、という哲学史的事実があるからといって、テキストの綿密な読解や歴史的コンテキストは無視して哲学史を自由に誤解してもかまわない、と開き直ってよいことにはならない。一部の現代思想系にしばしば見られる風潮であるが、日本にはとりわけこうした反知性主義的な哲学史の理解がはびこっているように思う。新たな哲学的洞察やアイデアを得るための源泉として哲学史があることと、哲学史を正確に理解するということは、根本的に異なるもので、混同してはならない。

哲学史を現代の目から見れば、それだけで哲学になるのか?というと、そういうわけでもなかろう。戸田山和久氏が『哲学入門』でも指摘するように、これまでのディシプリンとしての哲学が、あまりに哲学史的アプローチに偏ってきた、ということも問題がある。現代の諸科学・諸理論のなかには、まだまだゴロゴロ哲学的問題があり、哲学研究者はそれらを無学のゆえに無視しがちであり、それらを扱う方がより生産的な側面がある、ということは確かにあると思う。

私自身、哲学史ではなく哲学の研究室の出身であり、歴史そのものではなく哲学することに関心があり、哲学史研究の意義について確固たる確信をもってやれているわけではないし、ぶれない意志をもって哲学史を研究できているわけではない。

ただ哲学として、哲学史をまったく無視してよいか、というとそういうわけでもなかろう。素直に告白すると、哲学史をやっていると、過去のテキストを読むだけで手一杯で、現代の議論を追っていくような時間と労力は見込めそうにない。同様に、現代哲学をやっていると、現代の議論を追って行くだけで手一杯で、哲学史もきちんと踏まえるだけの時間と労力が見込めないというだけのことではなかろうか。

「思うにわれわれ現代人は、古楽を含めて過去の芸術的遺産を、現代の目からしか見ていなかったのではないだろうか。それらの芸術的遺産の真実の価値を知るためには、それを産み出した芸術家たちの心になりきってみる必要性があるのではないだろうか」(同、20頁)

思うに、古楽が現代においてようやく、古楽が産み出された当時代の文脈にきちんと向き合おうとしている段階であるように、哲学史もまた、これまでなしてきた哲学史の都合のよい現代的解釈に対する反省を通じて、ようやくそのような段階に達したように思われる。現代的な解釈もまた、過去の哲学の価値を知るためには不可欠である。むしろ、現代に生きるわれわれの方が、過去の哲学をその時代における価値以上に、正当に評価し、知ることができる。