labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

パスカル「想像力」メモ。

参照文献:« Imagination », Pascal Pensées, Brunschvicg, §82 ; Le Guern,§41


パスカルによれば、「想像力」とは、

1. 人間において支配的・中心的な部分
2. 誤謬と虚偽の女主人(maîtresse d’erreur et de fausseté)
3. 事物に対して価値を与える根拠(価値創造力)
4. 理性の敵なる卓越した能力(superbe puissance ennemie de la raison)
5. 社会・政治においても支配的な能力

である。

想像力は、偽りの能力(faculté trompeuse)として、しばしば虚偽を与える。しかし、常に虚偽をもたらすわけではない。ときには真理を語り、また真偽の不明なものについても語る。この意味で、想像力はその本性上両義的な能力であり、確固たる位置を持ちえない、認識の不安定なはたらきである。
実際、想像力は、感覚と理性の階層(ヒエラルキー)の中間に位置する人間に特有の能力である。パスカルは、理性との対比で、想像力の特性を明らかにしていく。理性は事物に対して価値を与えない(elle [scil. la raison] ne peut mettre le prix aux choses)。それに対して、想像力は、諸事物に対して価値を与える、価値創造の能力である。想像力がもたらす価値は、幸/不幸、健康/病気、裕福/貧困という二側面に必然的に分かたれる。また、想像力は、一方で、理性を考え、疑い、否定する。それは、理性を制御しそれを支配する。その権能の範囲を考えれば、人間の本性を理性的側面において捉えるだけでは不十分で、想像力は人間の第二の本性(seconde nature)というべきものである。想像力は、他方で、感覚を保留し、感覚を感じるままにさせる。想像力は愚かさと賢さを併せ持つ、いわばヤヌスである。
理性との対比で浮かび上がる想像の力を、パスカルにしたがい、より具体的に見ていこう。想像力は理性より多くの満足を与える。想像力が事物に与える装いは、理性がもたらす裸の事物より、人々を好ませる。事物は理性に対してはその本来の姿でしかありえないが、想像力に対してはそれがありたい姿に映る。知識人は、想像力が持つ巧みさと大胆さ・信用・快活さを利用することによって、聴き手を説得し、尊敬と崇高さを喚起し、幸福と名誉を導く。たとえば、弁護士の雄弁の如何によって、裁判官や陪審員の心証も変化する。また、司祭の説教も、その内容以前に、聴き手が司祭に対して持つ印象に大きく依存する。対して、理性は慎重さ、不信、恐れによって、惨めさと不名誉を導く。司法官(magistrat)が纏うオコジョのローブ、あるいは医者が被る四角帽は、イマージュないし記号としてその権威を象徴する。理性が、想像力にその固有の座をとらすに至らしめる。構像の力は否定されるのでも、抑えられるのでもなく、精確に測られることで緩和させられよう。たとえば、そのような理性的な想像力の使用の典型を、幾何学に見ることができる。しかし、科学に権威を与えるのもまた想像力であり、したがって科学は想像的な学でしかありえない。というのも、皮肉にも実直で正しくあらんために、擬装によって科学に尊敬と信用を与えるのは、想像力にほかならないからだ。王の権威を、真なるものとして民衆に知らしめるには、その王冠やローブ、ユリの花、とりまく近衛兵や軍団、壮麗な宮殿、そして悠久なる音楽によって擬装する必要がある(Image de Louis XIV)。王の権力を、想像力が創造する。想像する能力が、司法官として、理性の確実さをしばしば決定において凌いでしまう。世界に価値と豊かさを与えるのは、理性ではなく、想像力である。「想像力は万事を意のままに扱う。それは、美を、正義を、そして世界のすべてである幸福を作る。」« L’imagination dispose de tout, elle fait la beauté, la justice et le bonheur qui est le tout du monde. »つまりは、想像力の扱うすべてが、世界の全体である。
こうして、想像力は単に個人的領域に留まらず、社会的・政治的領域においても、支配的役割を演じる。判断が誤るのか、感覚が誤るのか。パスカルにとっては、想像力が個人的判断の支配者として位置付けられる。正義と真理に正確に触れるには、想像力はあまりに苔に覆われている。この、赤いローブを身にまといその権威を誇る、世界の女王(maîtresse du monde)たる想像力がもたらす穏やかで平和な印象を拭うには、理性の使用が不可欠である(Robe rouge des magistrats du parquet)。しかし、そこに戦争が生じる。感覚と理性のあいだにある戦争が、誤謬の原因である。それらは、真理の二つの原理であるが、互いに異質なる能力(facultés hétérogènes)で、各々がその誠実さを欠き、一方が他方を濫用せずにはいられない。古い印象への執着(すなわち慣習)と新しい印象の魅力(好奇心)とのあいだの葛藤も、想像力に由来するもので、誤謬の原因である。たとえば、真空の存在について、幼児期にもった印象と、それを訂正する科学の新しい実験(トリチェリとパスカルの真空実験)。判断と感覚を狂わせる、病気もまた誤謬の原因の一つだ。感覚は理性をその虚偽なる見かけによって濫用し、理性は感覚の真理を遠くへ追いやる。こうして、いかなるものも真理を人間には示してくれない。« Rien ne lui [scil. é l'homme] montre la vérité. » 想像力は、理性と感覚の戦争を調停し、平和をもたらすものだ。人間は、この不安定な力においてしか、安定を見出せない。それは、有限と無限、真と偽のはざまにある不完全な存在として創造された人間の尺度にふさわしい、人間に自然で本来的な能力である。ゆえに人間存在の本質をここに見るのだ。