labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「オザケン」と「イメージ管理社会」。

オザケンが復活するのか。「復活」というのは、なんとも他人のアイデンティティを一面的にしか捉えていない野暮な言い方で、勝手に殺すな、という話だが、それも自分にとってはオザケンは音楽家としての彼でしかありえないからで、その背後にある人間としての他の活動は個人的にはどうでもいいから、思わずそう言ってしまったんだけど、たぶん世間一般の考えもそんなところだろう。観念的にみれば、およそ誰もが殺人者なのだ。熱狂的ファンでもないし、ファンというにはほど遠いが、いくつかの曲はかなりのインパクトを自分に与えたし、どこか気になる存在ではあったので、これまでの間どうしていたのだろうと、とりあえずウイキでも見ていたら、そのリンクにあったサイトの、長い復帰宣言ともとれる読み物がふと目にとまった(リンク)。その中で、タイガー・ウッズの「イメージ管理」能力つまり自分が世間に対して与える印象を調節する能力に優れていた反面、私生活が乱れに乱れていたことや、他方でマイケル・ジャクソンはイメージ管理に失敗し周囲に左右されつつも、芯の部分では変わらなかったのではないかと述べている個所があった。現代を鋭く捉える詩人としての感性から、何かふたたび湧き上がるものがあるのかもしれない。ともあれ、音楽活動を再開するということは、やっぱり音楽家としてのオザケンのイメージから、彼自身も逃れることができないことの現れなのかもしれない。たぶん、何か期するものがあるのだろう。昔懐かしい曲をいくつか久しぶりに聴いてみたけど、どこか模倣があるようで独特でもあり、初めて聴いたときと同じく、不思議な魅力を保っている。当時聴いていたときも、何か完成されていない感があったんだけど、かえってそれが良くて、今聴いてもなんだか新鮮で、歌詞はストレートだし、音楽そのものはすごく作りこまれている、そんな気がする。加工音楽があふれかえる時代だからだろうか。ライブで復活するのも、そんな時代への警鐘なのかもしれないなあ、とか勝手に思ったりする。あれからどう変わったのだろう。あるいは、どれくらい同じままなんだろう。個人的には、すでにある程度確立されてしまった自分のイメージに、これからどう向き合っていくのかが気になるところです。ライブは行けませんが、行った人は素直な感想を、どうぞよろしく。