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ある思惟の典拠を見つけたとき、というのは、それなりに発見の感覚がある。そのためには、その重要性を認識できるくらいには専門的知識が要るのはもちろん、それを得るまでに、多くの場合、結構な時間を費やす。であれば、文献学的発見も、数学的発見や科学的発見と同程度とは決して望まないまでも、もう少しフューチャーされてもいいように思うのだが、自分の印象では、発見の内ではそれほど高い身分になく、どこかみじめ。中には世紀の発見的なものもあると思うが、それで、というのも少なくない。専門外の人には、そのありがたみがわからないのである。異なる性質を持つ知識に関する発見を、何で比較するかと言ったら、それが持つ有用性とか新奇性とかだろうから、文献学的発見は、その点では地味で応用力もなく、だから肩身が狭いのだろうか。あんまり事情は分かっていないので、無責任なことを言ってしまったかもしれないが、なんだか、そういう気がしている。それでも、無数にある資料の中で、何か意義のあることを見出すには、それなりの洞察力がいるものである。ただやみくもにやっても、見る目のない人にはまったく見えない。また、典拠だけではどうしようもなく、それを他のものとつなげてあげなければ、意味は浮かび上がってこない。専門性は、少なくとも成り立つ。それでも、単に、偉大な他者の名を借りて、その思想を食い物にしている、と思われているかもしれない。ただ模倣するだけであれば、そうかもしれない。それでも、ただしく模倣することができれば、その人はその偉大な人とその点では、同じレベルに達しているわけで、これはこれで、ただごとではない。すでに過去の概念を扱う側面は否めないし、その取り扱いですでに十分大変なのだけど、そのためには偉大な先人たちのディシプリンを獲得する必要もある。概念の使われ方が問題になるからで、その使われ方は、方法に依存する。その方法を、どれか一つでも獲得することができれば、おそらく、その人はすでに何者かになれることだろう。たとえばデカルトの方法を、本当の意味で獲得したのなら、有能な科学者になれるはずである。もっとも、たいていは、越えられない。残念ながら。凡庸な人間は、前提条件からつまづき、ゆえに凡庸にとどまる。その果てにあるのは、やれ、利用しただの、曲解しただの、通俗化しただのと、散々である。死んだ後もまた殺される。最悪、消される。たいていは、ほったかされる。ああ、いやだ。何か、生きるものが欲しい。おそらくそういう思いから、哲学を始めたのだろうが、実際は反対に、殺される、ほったかされる、そして消されかねないわけであるから、アイデンティティの確立を困難にするのに、これほど容易な分野はない。なにせ、それ自体が、哲学的問題になってしまうわけだから。われわれは、人の名を借りた小さき模倣者なのか。たぶん、そうなのだろう。だが、われわれとて、単に過去の芋を掘っているわけではないだろう。自らの思想を、偉大な他者の肩に乗っかって、高めようとしている。われわれは、自らを模倣することはできないはずである。また、模倣せずに済ますこともできないはずである。ミメーシスの非反射性は、およそ学というものには、どれも共通してあるように思うし。論理学や数学は、各分野間に影響関係を持ちつつも、各々は自律し、自らを真似るに近い。類比の反射性を純粋に持つに至った方法が、おそらく、マテーシス・ウニウェルサリスと呼ばれるものだろう。なぜなら、それは、本来、個体を真に個にする方法であるはずだからだ。「わたしは、わたし自身に似ている」。わたしは、いつか、そう言いたい。
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滞在許可証の件はいまだ音沙汰なし。愚痴はもう言わない。たぶん。どこかで連絡が途絶えたのだろう。思惟か、言葉か、ものか、はたしていずれの秩序に関して、その伝達が途絶えたのやら。可能性を挙げだしたら、きりがない。またメールしなきゃ。
研究、今週中に一区切りつくところまでいきたいのだが、今日はがんばれたし、あとは、ノルマをやって早目に寝よう。