「抽象」(『ヨーロッパ哲学辞典』)
ひょんなことからアリストテレスの『デ・アニマ』(魂について)が話題になり、アパイレーシス(抽象)について語る機会を得たので、昔の関心を思い出し、「抽象」について、以前辞典を走り書きしたものを発掘して、少し見直してみた。結局、あまり手をいれていませんが。
というわけで、以下では、
Vocabulaire européen des philosophies
から、アラン・ド・リベラによる《ABSTRACTION》の記事をレジュメ風でお届けします。
久々に、哲学の記事です。
ABSTRACTION, Abstraits
希. aphairesis
羅. abstractio, ablatio, absolutio. abnegatio; separata, abstracta
独. Abstracktion, Entbildung
英. abstraction; abstracta, abstract entities
コンディヤック: 「現実化された抽象的概念の濫用」を指摘。この不都合を避けるために、コンディヤックは、われわれの持つあらゆる抽象的概念の一般化へとさかのぼる必要を訴える。それは、定義によって補填しようと努めた哲学者たちによっては、知られていない方法である。
アリストテレス:「抽象的存在者」「抽象において存在する事物」。それは、数学的学問がその内在する質料の抽象によって把握するところの、形相である。あるいは、偽ディオニシウス・アレオパギタが、「あらゆる存在者から抽象によって、思惟により超本質へと高まること」として、呼んだもの。
抽象ということで区別すべきこと:
1) 普遍者の問題、一般的対象の存在/非存在の問題としての、抽象的観念の生成の問題。
2) 抽象が行使される論理学・認識論・神学などさまざまな分野における、抽象的否定の実践の問題。
abstraction: abstracta, abstract entities (En) ; syn: universals
抽象の外延:数学的対象(数、クラス、集合)、幾何学図形、命題、性質、関係。
プラトンのイデアあるいは形相は、時空的対象によって例化・付帯されるところの、非時空的な実在的<抽象的>存在者を指すことが多い。したがって、「抽象」という言葉を使用する場合には、中世ではそうしていたように、アリストテレス的意味で、分離した存在者(separata)、抽象的存在者(abstracta)、という意味に限定するほうが正確。
I. アリストテレスにおける抽象の2つのモデル:エパゴーゲーとアパイレーシス
1)エパゴーゲー(epagoge): 抽象的帰納。同一概念のもとに、似ている諸要素を集めてグループ化すること。
2)アパイレーシス(aphairesis): 数学的(幾何学的)抽象。その事物を個体化している痕跡から、ある事物の像あるいは表象をはぐこと。
II.アパイレーシスについてのペリパトス学派の理論と中世におけるその延長である抽象主義
【A. 諸学の分類】
『天について』(De caelo III, I, 299a 15-17)において、抽象という用語は、物理的対象(ta ek prostheseos)から数学的対象(ta ex aphaireseos)を区別するために、付加(addition)の反対として用いられた。
しかし、アリストテレスが、知性がいかにして抽象を認識するかについて説明しているのは、『魂について』(De anima)のみである(III, 7, 431b 12-16)。すなわち、「知性が抽象的名辞を考えるとき、分離されないものを、あたかも分離したものとして数学的事物を考える」。
マイケル・スコットが羅訳したアヴェロエスの『デ・アニマ大注解』には、アパイレーシスについての説明に、「mathesisのうちに存在する事物」、「否定的に言われる事物」とある。否定は「質料(物質?)とともにあることからの分離」である。抽象は、否定・分離・切断・切除・引くこと、として理解されている。否定的に言われる存在者=質料から分離された存在者=数学的存在者のこと。
しかし、数学的存在者だけが、抽象的存在者なのではない。数学的存在者と普遍者、抽象の観点をいかにして区別するのか、という問題は、アリストテレスの解釈者たちを悩ませた。
アリストテレス『形而上学』VI, 1, 1026a 10-16
- 自然学 分離されていない、不動でない存在者を研究する学問
- 数学 不動な存在者だが、質料から分離不可能で質料に関わる存在者を研究する学問
- 形而上学 不動かつ分離した存在者を研究する学問
Philosophica diciplina(13世紀、無名)
- 自然学:思索的哲学が扱う事物は、存在者と認識において、運動や質料に結びついている
- 数学:それらは、存在者においては結びついているが、認識においては結びついていない
- 形而上学:それらは、完全に分離している
つまり形而上学は分離した存在者(分離した実体あるいは知性、神、思惟の思惟)を扱い、数学は抽象的存在者を扱う。
【B. 抽象主義】
アフロディシアスのアレクサンドロス:『デ・アニマ』III, 7, 431b 12-16のテーゼを、数学的対象だけでなく、質料にかかわるものすべてについて、一般化。→「抽象主義」。幾何学的に知解可能なものは、知解可能な抽象一般の一部であるが、同時に、その具体例として多くの場合において機能している。
アレクサンドロスの「抽象主義」:すべての特殊なもののうちの普遍なものは、それが認識されるのと同じ仕方では存在しない。
つまり、普遍者には二つの存在様式がある。
1) 事物のうちにある
2) 認識されたものとしてある(概念としてある)
スコラでは、
1) unversel "in re"(事物に内にある普遍)
2) universel "post rem"(事物の後にある普遍)
として区別されるものである。
リベラはこれらを、《être》と《exister》の違いとして捉える。
アレクサンドロス自身は、普遍者が、思惟のうちの存在と、基体(hupostasis)のうちの存在を持つとする。
ボエティウスは抽象を、その基礎に実在を持つ概念として理解している。「事物に由来する把握されていないすべての概念は、必ずしも空虚で偽なわけではない。」思惟によって心的に合成した場合にのみ、偽な意見(信念 opinio)がある。そのような思惟の合成のはたらきは、「想像力」(imaginatio)と言われる。たとえば、人間と馬を合成してケンタウロスを与える。ギリシアの注釈者が、パンタシアー(phantasia)と呼ぶ例である。こうしてボエティウスは、<偽な概念>と<抽象によって事物から派生した概念>を区別する必要を説く。
したがって、ボエティウスにおける抽象は、アレクサンドロスにおけるのと同じように、「非物体的なもの」に関する分離あるいは解離である。抽象は、「物体に混ざっている非物体的なものを思惟が受け取り、思惟がそれらを観るために分割しそれ自体において考察する」ときに、思惟を実行するはたらきである。
【C. 分離的注意:intentio / attentio】
12世紀、アベラールは、抽象の近代的な経験論および唯名論において中心的になるテーマを導入する。すなわち、「注意」(関心)(intentio, attentio)である。
アベラールはアリストテレスの質料形相論を引き継ぎ、質料と形相が分離して存在しえないとする。
そして、精神あるいは理性は、
- 質料それ自体を考える、あるいは、
- 形相のみに注意を持つ、あるいは、
- 質料と形相両者を一なるものとして考える
ことができる、とする。
アベラールはボエティウスの抽象主義のテーゼが、<抽象による知が、空虚ではない>とするものだと考える。アヴェロエスの理論によれば、抽象は、機能的なものではなく、単独的なものである。彼は、抽象を「中立化」として捉える。アベラールの抽象は、注意の集中の運動から生み出されるものである。
III. 抽象に対する近代経験論者の批判
【A. ロックの一般三角形】
観念あるいは抽象概念の起源の問題:類似唯名論(ressemblance nominalisme)
<名前>の使用と<類似性>の把握のあいだに想定された関係の解明
ロック『人間知性論』(ECHU, III, 3): 名前のもとに事物を再編するのは悟性(知性)のはたらきであること。悟性は、それら事物のあいだに観察される類似性から、抽象一般観念を作ること。
ヒュームはそれに、個体の観念が持つ多性に対して、名前が持つ「省略的」役割を付け加える(Hume, THM, I, I, ch. 7)。
ロックとヒュームは、抽象一般観念の起源については一致するが、一般的対象の位置づけに関しては対立する。
ロックによる三角形の一般観念の説明。彼は、2つの両立不可能な性質を提示している。三角形の一般観念は、いかなる特殊な性質をもっていてはならず、また、それらすべての性質を持っているのでなければならない(ECHU, IV, VII, §9)。もっとも、ロックは、そのような一般三角形の存在を要求してはいない。三角形の一般観念は、異なる複数の観念で両立不可能なものが一つに結合してしまったものとする。
【B. 結合と分離/ 表象の力:バークリとJ.S.ミル】
バークリは、『人知原理論』§15で、どのような特殊な性質も持たない、三角形の一般観念を形成することは不可能であるとする。また、§16では、両立不可能な要素から三角形の一般抽象観念を合成できないとする。
バークリは、抽象一般観念の形成とは区別される、ある個別の図形のある性質に「注意」(attention)を向けることをあげる。ある事物のある性質に注意を向けて他の側面を考慮しないことによって「抽象」はなされるが、抽象一般観念が形成されうるということはこれを明確に否定する。また、想像力によって、個別の事物の観念から、特殊な観念が合成されることを認めるが、一般観念が形成されることは決して認めない。
さらにバークリは、
- 正統な抽象:分離的に存在しうる性質の抽象 と
- 疑似抽象:分離的に存在しえない性質の抽象
を区別する。
他方で、J.S. ミルによれば、抽象は、「いくつかの属性を分離すること」に存するのではなく、より大きな集合体の部分として認識されたこれらの属性から出発して、結びつけられている他の属性を犠牲にして、それらの属性のみに注意を固定すること、である。J. S.ミルは、抽象を、具体的観念から得られるいくつかの部分に関して注意を持つこと、として理解している。ミルは一般概念よりも具体における諸対象の複合観念を語ることを好む。彼によれば抽象は、具体的観念のいくつかの部分への注意に存する。
ヒュームのロック批判は、バークリの路線をほぼ踏襲している(cf. THN, I, I, ch. 7)。ヒュームは、一般観念の起源を「習慣」に見る。いかにして個別の観念が、その本性において、表象のちからによって一般的になるのか。それは、習慣に基づく。「習慣」は、ラテン語のhabitusに由来するもので、習慣的認識notitia habitualisについての中世的テーゼを復活させたものである。その基礎には、オッカム流の唯名論がある。一般名辞の役割は、個別の内容を思い出させる道具としてある。一般名辞を使うときに個体の観念を呼び起こす、そのような習慣が、抽象観念と一般名辞の本性である。そしてこのことが、いくつかの観念がその本性においては個別だが、その表象においては一般的である、ということの理由である。すなわち、個別の観念は一般名辞と結びつけられることで一般的となる。つまり、名辞と他の個別の観念との恒常的連接による。そうした観念は、想像力によって想起される。