labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

中村雄二郎、『共通感覚論』、岩波書店、1979年、岩波現代文庫版、2000年、読了。

コモン・センスの分離した二つの側面として、「常識」と「共通感覚」があるが、近代以降すっかり影に隠れてしまった感のある後者の側面に光を照らし、ふたたびそれらの融合を論じることで、「共通感覚」の現代的再生を試みた作品。様々な哲学説が提示・分析されるが、主軸がどこにあるのかといえば、やはりデカルトであろう。この書は、数学的な理性中心主義に陥った近代以降の一面的で通俗的デカルト主義を反省することを求め、「方法」にとどまらない感性および共通感覚を重視していた体系的なデカルト像の観点から、デカルトの現代的意義の再生を試みている書とも読める。

個人的な雑感。共通感覚について概念史を行ってくれており、これから勉強するものにとって大変に助かる。ライプニッツについては一切触れていないし、数学的概念とのかかわりを突っ込んで論じているわけではないが、多くの示唆に富んでいるので参考にしたい。ちょうどセミナーでポアンカレの空間概念を問題にしていてまとめている最中で、ライプニッツに関してもまさに問題にしていた箇所で時機が良かったのか、わくわくして読んだ。ただし、アリストテレスなど、個別的に突っ込むといろいろ解釈に問題があるようなので、その辺はあとあと自ら確認したり補ったりしていかなければならない。ライプニッツは想像力のはたらきに関して記憶と想起をほとんど区別しないこと、そして共通感覚を感覚よりも理性に近づけていること、この2点において、アルベルトゥスよりトマスの立場に近いことも確認できた。そうなってくると、デカルト的な共通感覚あるいはボン・サンスの2側面が、ライプニッツでは理性に偏ったものとして再解釈されているという対比が浮かび上がってくる。では、ライプニッツは感覚を不可欠としているけれども、やはりデカルトに比べあまりに感覚の役割を軽視してしまっているのではないか、という問題についてどう答えたら良いのか。記号法が問題になる数学や論理学では、「感覚的痕跡」としてしか感覚の役割がもはや評価されていない。幾何学においても、発見における図形の役割を否定するわけではないが、図形を排除した記号的計算としての幾何学が構想されており、こうした盲目的思考が司る分野において、五感はほとんど「いらない子」状態である。要るには要るが、物理的世界と観念的世界とのつながり―因果性―はそこにはない。ライプニッツは感覚と理性のあいだを想像力が橋渡しすることを認める。しかし、外的世界と内的世界、身体と精神のあいだに連続性ないし因果関係があるではなく、両者のあいだの関係を説明しうるのはただ予定調和という仮説のみである、というのがライプニッツの立場。ところで、物理学ではクラーク宛書簡にもあるように、われわれの表象ないし現象からいかにして空間概念が構成されるかを説いている。そこでは諸感覚や共通感覚、想像力が空間概念の構成に極めて重要な役割を果たすことが読み込める。こうなってくると、数学や論理学と比べて、物理学では感覚は極めて重要な役割を果たすものと考えねばならない。こうして、ライプニッツの感覚論も再考する必要がある、ということになる。想像力の問題ですでに扱う範囲の広さは許容範囲を越えているので、なんとか的をしぼってコンパクトにまとめたいところ。まだ一度通読しただけで、問題を捉え切れていないようなので、『共通感覚論』はもう一度諸説をノートにまとめつつ、アリストテレスデカルトライプニッツの原書をひもといて読み直したい。