labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

クーチュラ『論理の代数学』

ルイ・クーチュラ『論理の代数学』(1905; 第2版:1914)から、
冒頭と結論部のみをざっくりと抄訳してみました。

リプリント版がOlmsや、次の出版社から出ています。

Louis Couturat, L'Algebre de la Logique, 2e édition, Réimpression : Albert Blanchard, Paris 1980.


1. 序論.− 論理の代数学は、ジョージ・ブール(1815-1864)によって基礎が築かれ、エルンスト・シュレーダー(1841-1902)によって発展・改良された。〔クーチュラは本書でこの分野の形式化をさらに推し進める。〕この計算の根本法則は、推論の原理ないし「思考の法則」を表現するために発明されたものである。〔ブールのAn investigation of the Laws of Thoughtという書名にもそれが表れている。〕しかし、この計算を、恣意的に措定されたいくつかの原理に基づく代数学のように、純粋に形式的な観点すなわち数学の観点から考えることができる。この計算が、果たして精神の実在的操作にどの程度まで対応するのかとか、推論に翻訳したり置き換えたりするのが適切なのかという問いは、哲学的な問題である。この問題についてはここでは扱わない。この計算の形式的価値および数学者にとっての関心は、それに与えられる解釈や、論理学的問題になされうるその応用からは全く独立である。ひとことで言えば、われわれはそれを、論理学としてではなく、代数学として提示するのである。〔たとえば、本書で三段論法は、(a < b)(b < c) < (a < c)のように代数学的に表現される。〕」


60. 結論.− 以上の説明は、主題を汲み尽くすにはほど遠い。それは、論理の代数学の完全な概論であることを主張するものではなく、この学問の初等的な原理と理論を知らしめるものにすぎない。論理の代数学は、固有な法則をもつあるアルゴリズムである。それは、一方で通常の代数学といくつかの面で極めて類似しているが、他方でそれとは非常に異なるものである。たとえば、前者は次数の区別を無視する。トートロジーの法則と吸収律は、そこに大いなる単純化を導入して、数的係数を排除する。それは、あらゆる種類の理論や問題を生じさせうる、またほとんど無際限に発展可能な、形式的計算なのである。
 しかし、同時にそれは、ある閉じた体系なので、あらゆる論理を包摂するにはほど遠いことを示すことが大切である。厳密に言えば、それは古典論理〔伝統的なアリストテレス論理学〕の代数学にすぎない。したがって、それは、アリストテレスによって限定された領域、すなわち、概念間の包含関係および命題間の含意関係の領域の内に閉じ込められたままである。たしかに、古典論理は(その誤りや重複を捨象しても)論理の代数学よりもはるかに狭い。それは、三段論法の理論の内にほとんど完全に監禁されていたのであり、今日ではその境界は極めて制限され人工的に見える。それにもかかわらず、論理の代数学は、同じ次元の問題を、より豊かさと一般性をもって扱う以外には何もしない。それは、その包含関係または同一性の関係において考察された集合論以外の何ものでもない。ところで、論理学は、遺伝的概念(クラスの概念)やそうした概念間の包含関係(包摂関係)以外にも、他の多くの種類の概念や関係についても研究せねばならない。ひとことで言えば、それは、ライプニッツが予見し、パースとシュレーダーが築き、ペアノ氏とラッセル氏が決定的な基礎を確立したように思われる、関係の論理学をそのうちに展開するのでなければならない。さて、古典論理と論理の代数学が数学にとってほとんどいかなる有用性もないにもかかわらず、数学は関係の論理学においてその概念と根本原理を見出す。数学の真の論理学とは、関係の論理学である。論理の代数学は、それ自身、個別の数学理論として、純粋論理学に属するものである。というのも、それは、われわれが暗黙的に措定した諸原理に基づくからである。また、それは、代数的ないし記号的表現が可能なものではない。なぜなら、それは、あらゆるシンボリズム〔記号法〕およびあらゆる計算の基礎であるからである〔原註:演繹の原理および置換の原理。『数学の諸原理』Ch. I, Aを見よ。〕こうして、次のように言うことができる。すなわち、論理の代数学は、その形式とその方法とによって、ひとつの数学的論理学である。しかし、それを数学の論理学として採用する必要はないのである。」


追記
M. Loiによる本書の解説の部分も粗訳してみました。

出典は、Encyclopédie philosophique universelle, Les Œuvres philosophiques Dictionnaire

「この小さい概説書は、包摂(inclusion)の形式論理学の革新に着手するものであり、数学の方法に類似した方法によってその推進力を得ている。また、ブールやシュレーダー、ド・モルガン、ヴェン、ポレツキー、ホワイトヘッドらの仕事の主要な結果を知らしめるものである。クーチュラは、ある真なる計算を与えることで、恣意的に措定されたいくつかの原理が、いかにして厳密に連鎖した諸定理や式の全体を演繹するのかを示す。この計算は、項をして概念を表現するものとして考えるか、あるいは命題を表現するものとして考えるかに応じて、二重の解釈を受け取りうる。しかし、それら二重の解釈を与えることができ、それ自身として研究されねばならないものとしての論理体系が、その二重の解釈に前存在するのである。
 第一部では、論理の代数学が基づいているところの原理と操作が説明される。その基礎には、定義不可能な第一の概念として、包摂関係が置かれる。それは、概念的解釈においては「内に含まれる」によって、また命題的解釈においては「含意する」によって、定義することなしに翻訳しうる。
 次に著者は、普遍的命題や特殊な命題が変数に対して適用された時、いかにして論理関数の積と和についての考察が、それらの命題を翻訳することを許すのかを示す。彼は多変数関数および複数の未知項を含む方程式の理論を展開し、ブールの問題などを扱う。
 結論では、クーチュラは論理学が、遺伝的概念(クラスの概念)や包摂関係以外にも他の種類の概念や関係を十分研究せねばならないと明言する。論理学は、ライプニッツが予見し、パースやシュレーダーが築き、ペアノやラッセルが決定的な基礎のもとに確立した関係の論理学において展開されねばならない。数学はこの関係の論理学において、その根本的な諸概念と諸原理を見出す。真の数学の論理学は、関係の論理学なのである。」

研究メモ:ヨハン・ベルヌーイ自伝


ライプニッツの原子論論文の校正が終わって、
今は無限小論文の校正中。


ヨハン・ベルヌーイがライプニッツ微積分に出会ったときの印象について、
「解説というよりも謎かけだった」と述べているようなのですが、
その正確な典拠を調べていたら、次の資料をネットで見つけることができました。

Rudolf Wolf, Biographien zur Kulturgeschichte der Schweiz, 2. Cyclus, Zürich, 1859.


表題からはわかりづらいのですが、p. 71- ヨハン・ベルヌーイの自伝になっています。
これは近世数学史に関心がある方は、読む価値がありそうです。


典拠はすぐ次の頁にありました。

「・・・兄[ヤコブ]と私は、1684年のライプツィヒ学報に収録された、ライプニッツ氏の小論に偶然出会った。そこではたった5-6頁で、微分計算についてのごくあっさりした考えが述べられていた。それは解説というよりも謎かけだった。しかし、ほんの数日の間でそれを深く掘り下げてあらゆる秘密を明らかにし、それから無限小という主題についていくつもの作品を出版するには、われわれにとってはそれで十分であった。」(Ibid., p. 72)


ベルヌーイ家の解説などを読むと、良く引用される箇所で、わりと有名な資料らしいです。

再開

夏は査読や組合、育児などサービス業で忙しかったです。
辞典項目執筆や翻訳などの依頼仕事も溜まっており、あまり身動きがとれない状態。
それはそれで人のためにがんばっていてよろしいのかもしれないが、
あまり自分の研究の時間がとれないのでは、研究者としていかんともしがたく、
アイデンティティが崩壊しかねないので、もう少し空いた時間にこまめに研究をしていくべく、またブログでちょこちょこ覚え書きでもしていきたいな、と思います。

哲学史研究の哲学:ライプニッツ研究の場合WS

昨日(5月20日)、日本哲学会第77回神戸大会にて、ワークショップ「哲学史研究の哲学:ライプニッツ研究の場合」に登壇し、発表・議論をしてまいりました。

これは、昨年度の日哲シンポ「哲学史研究の哲学的意義」の続編として、個別事例ということで、ライプニッツの数理哲学のケースを検討したものです。

内輪ばかりでやってもあまり意義はないので、坂本さんを招き、歴史学(インテレクチュアル・ヒストリー)の立場から、とりわけアナクロニズムの問題に焦点を当てました。

どれも有意義な質問で、濃密な議論ができたように思います。小教室に40人ほどが入り、立ち見も出るなど、たいへん盛況で、よかったです。

司会・オーガナイザーの植村さん、企画当初から関わっていただいた井頭さんをはじめ、登壇者で同業の稲岡さん、質問者の坂本さん、ありがとうございました。

当日の発表資料は、以下の日哲ホームページから入手できます(一番下のほう)。

http://philosophy-japan.org/conference/meeting/yokou_2018/

また、前日の人工知能・ロボットの哲学シンポで、「いいかげん原稿を読み上げる形式はやめたらどうか」というご指摘もあり、急遽、スライドで発表しました(いずれにしろ、30分で発表を終えなければならず、スライドをつくろうか迷っていました)。

というわけで、当日のスライド資料は以下のリンクからどうぞ(*pdfに直リンクします)。

https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=161770

わりと周囲の反響は良いようなので、やって良かったな、と思いました。

ただ、まだ自分では消化しきれていない論点も多く、当日の質問の受け答えで、わりとまともなことを言っていたっぽいのですが、自分が何についてどう答えたのか、あまり記憶がありません。

こちらからも質問したいこともいろいろあったのですが、質問に答えるのに必死で、押し殺してしまいました。

ちょっと頭を整理して、改めて考え直す必要がありそうです。
ご質問、ご批判などがあれば、うれしいです。

他の仕事もなかなか片付かず、肝心の自分の研究の方がちっとも進んでいないので、まだ頭がはたらくうちに、はやくなんとかしなければと焦っております。。。

哲学史に関わる方(とりわけ若手)にとっては、自身の問題と照らし合せて、今後の研究の参考に少しでもなれば、幸いです。

ルベーグの「数学者は、数学者であるかぎり、哲学に没頭すべきではない」という主張について

ひそかに測度論の勉強を進めようと思いつつ、なかなか数学に集中する時間も体力もないので、研究室のソファーに寝転がり、ルベーグの書をふと手に取った。そこに、非常に面白い発言があったのでメモをとる。

ルベーグ『量の測度』みすず書房、1976年。


原著は、

Henri Lebesgue, Sur la Mesure des Grandeurs, L'Enseignement Mathématique, Genève, 1956.


本書で、ルベーグは率直に、数学的内容から哲学的考察を排除すべきことを主張している。

当時にあってはかなり現代的な独自の見解が語られるのは、第I章と結論である。

第I章では、観念論的な数学観を批判し、「算術は実験科学である」という経験主義の立場を表明している。また、数学の基礎についての哲学的考察をすることが行われていた当時の数学教育のあり方について、経験に頼らないで数概念を解明しようとするようなあいまいな形而上学を授業から引き離すべきだと批判している。

このことでルベーグは、数学の問題に取り組むに当たっては、厳密な数学的実践において集中すべきことを主張しているように思われる。

したがって、本論を構成する2章から7章まで、「普通は、数学の基礎が問題にされるときはいつでも、哲学的見解が取られる」が、「私は思い切ってそれはしなかった」と言う。

このようなルベーグの態度の中に、哲学に対する侮辱を、人は見るかもしれない。

しかしルベーグは、むしろ、哲学を乖離させることは、これまで哲学が長い間考察してきた難しい諸問題に対して、無知な数学者が、早急で軽率な結論を出さないためなのである、と考えている。すなわち、「私の無能力を率直に認めることで、私は哲学に対して心からの本当の尊敬が証明されると思う」、と(ルベーグ『量の測度』、183頁)。

また、同じ8章の結論部で、ルベーグは次のように述べる。

「われわれは哲学を尊敬すべきである。しかしだからといって、それがわれわれの科学をよりよく理解するためにも、またそれを進歩させるためにも、たすけになりうるとは限らない。事実は、諸科学がとりわけ発展したのは、それらが自らの独立性を自覚し哲学から分離したからである」(同、183頁)

こうしてルベーグは、諸問題を精確さ・確実さにおいて研究するところの数学が、不正確で不確実な答えに満足せざるをえない哲学に求めるようなことは、数学がその本性を見失うことであり、あってはならないことだ、と主張する。

「私の意見では、数学者は、数学者であるかぎり、哲学に没頭すべきではない。なおこれは多くの哲学者によってはっきり述べられた意見でもある。反省の、また理解の努力は、数学の哲学との関連に向けられないで、いわば数学の内部になされるべきである。」(同、183頁)

こういう徹底した態度は、数学の学問的発展を真摯に希求するものとして、率直に好感が持てる。
他方で、数学の哲学からの乖離が、哲学との交流をいっそう難しくしてしまうことに対する危惧もある。これは、その後の歴史の発展を見ることによって、明らかにされるべきことがらであるが、事態はルベーグが望む方向に進んでいったのである。

永井博『数理の存在論的基礎』の序を読む

永井博『数理の存在論的基礎』創文社、1960年。

永井は本書の序で、今日の哲学の現状を率直に分析し、哲学の課題を投げかけている。すでに半世紀以上前の本であるが、現代の哲学の状況や問題意識にも通ずるところがあるように思われたので、内容を紹介してみたい。

今日における哲学の概念の多義性は、哲学の概念を単なる名目に堕している。哲学を否定する哲学もまた哲学的であり、すべての主張が哲学ならば、もはやいかなる哲学も存在しないというに等しい。過去に哲学者は存在したが、現在の哲学者はいかなる意味で哲学者でありうるのか。このように、現代の哲学は、性格を奪われており、「無性格」を性格とする。

永井は、哲学と科学の乖離を問題として、旧著『近代科学哲学の形成』で、その交流の可能性を歴史的に探究した。本書はその問題の一環として、数学という自律的な科学と哲学の関係に関する存在論的探究を試みたものである。

永井は、哲学と科学の関係について、哲学が科学を無視して、哲学固有の問題にひきこもることは可能だという。それも哲学に違いないが、消極的な態度である。他方で、科学を自称する哲学もある。それは、科学に哲学を即応させようとする限りでは、積極的な意義をもちうる。しかし、科学に従属し、科学を無条件に肯定するのは、悪しき科学主義として問題である。

哲学とは何か。永井はこの問いを、哲学自身に固有の問題として提起しない。「現代における哲学の理念の追究は、現代に固有の学問的状況から出発しなければならない」からである。(4頁)。

伝統的哲学の遺産は継承されなければならないが、ただ既成の哲学を流用するのでは効果がなく、権威主義に堕する。また、哲学の流行に振り回されて、哲学の本来の真実性を見失うのも、同じく堕落である。現代哲学でも、単に受動的に学習するのでは、歴史的哲学を学ぶのと大差ない。現代哲学においては、「現代が直面している基本問題を打開するためにみずから徹底的に思索し、ひとりひとりが真に哲学的な思惟の主体となることでなければならない」(5頁)。

永井は本書で、数学と哲学とが触れ合う境界を摘出し、数学的存在の存在論的系譜を探究することを主題とする。現代の数学や、数学の哲学からみると、集合論直観主義形式主義、超数学という、今となってはだいぶ古くさい、基礎的な枠組みのもとで書かれている、という印象がある。KleeneのIntroduction to Metamathematicsがちょうど1960年頃に出版され、数学基礎論ないし数理論理学の基本書として定着した時期であり、その意味では当時の数学基礎論を踏まえた枠組みであろう。しかし、一般的となって久しい分類のもとでの哲学的な問題意識を再確認することには、今でも一定の意義があることであろう。

本書が行うのは、数学的存在に関する存在論的考察である。数学的存在の本質に関する問題は、数学的思惟の本性が何であるかという問題と不可分である。この意味で、数学的存在の問題は、存在の原型と思惟の原型とが根源的に結合するところであるが、その結合の基本構造を解明しようとするところに、本書の究極の課題がある。

「すなわち「数理の存在論的基礎」の考察は、究極的には、存在の原型と思惟の原型との統一体から数学的存在と数学的思惟との相関関係をいかなるものとして説明するか、また逆に後者を手引きとして前者をいかなるものとして把握するかにあるといってよいであろう。このようにして本書はまた、数学基礎論から区別された意味での「数理哲学への新しい試論」でもある。」(7頁)

数学が、あるいは数学の哲学が、永井が試みるような存在論的考察を必要とするのか、というのは考察すべき課題である。数学そのものの自律性の観点からしたら、数学の存在論的基礎を考察することは、およそ無用のものである。また、数学の実践において立ち現れてくる哲学的な問題意識について、これまでの哲学ではあまり触れられてこなかったのであり、数学の哲学の伝統的な主題や基礎的概念ばかりでなく、そうした数学的実践にも、哲学は目を向けるべきことが指摘されうる。しかし、数学を思考する存在者としては、またそれに注目する哲学としては、実在の世界と思惟の世界との相関について、どこかで考えないわけにはいかないだろう。

むろん永井は、哲学がこうした存在論的問題を考察せずとも成立する可能性を認めている。むしろ、実在の世界との関係など、およそ決定的解明を期待しえないものであり、論争の泥沼におぼれてしまうのがオチである。無益な論争に徒労するより、経験的・実証的探究に努めたほうが、賢明であるという考えもあろう。そうした態度には、形而上学は学ぶべき点があろう。

しかし著者は、そうした点を自覚しつつも、存在論を唱えることの意義を主張する。なぜなら、「科学の、今の場合数学の成立根拠を真に存在論的な思索をもって追跡してゆけば、事態の必然として「超越」の問題に衝当らざるをえず、そこに否応なしに実在の問題が登場してくる」からである(9頁)。このような超越の問題を考えることは、著者にとって一つの哲学のあり方なのであり、「精神的冒険」なのである。

クラヴィウスに関する包括的な数学史研究


曽我昇平氏の博士論文、「クリストファー・クラヴィウス研究―イエズス会の『学事規定』と教科書の史的分析―」が、国立国会図書館デジタルアーカイブから閲覧・ダウンロードできることに、先ほど気がつきました。

まだ要旨を読んだのみですが、これまで欠けていた中世の視点とりわけイエズス会派の視点、教育的影響、そして漢訳を通じた中国算術への影響も踏まえた、クラヴィウスに関する包括的な数学史研究です。日本でこのようなクラヴィウス研究が出されるのは、初めてなのではないでしょうか。

数学史・科学史研究者だけでなく、日本のデカルト研究者や近世哲学史研究者にとっても、今後必読となる、貴重な研究と言えそうです。これまでもっぱらデカルトや近代数学革命の視点からクラヴィウスが評価されがちでしたが、そうした哲学史観や数学史観に反省を迫るものになりそうです。

哲学史研究者としての課題は、こうした歴史学的アプローチの浸透を、どのように真摯に受け止めて、哲学史の意義を今後確保していくのか、ということになりそうです。

リンク:http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8783143