ライプニッツ『モナドロジー』§1
平成24年度前期の講義で、ライプニッツの『モナドロジー』(1714)を扱いました。来年2014年は、『モナドロジー』が起草されてから、300年の記念すべき年に当たります。噂によると、各国で様々なプロジェクトが、裏で動いているようです。私も、国内の一つのプロジェクトに関わっていますが、その準備も兼ねて、『モナドロジー』のコメンタリーを、時間をかけて作っていきたいと考えています。(最初のうちは、自分の解説を入れず、これまでの研究を寄せ集めていきます。ご容赦ください。)
ご存知のように、『モナドロジー』は、ライプニッツの代表作で、彼の作品のうちで、もっとも読まれている書物であると思います。しかし、同時に、ライプニッツの専門家ですら避けたくなるほど、難解かつ神秘的なテキストです。まだまだ若輩であり、ライプニッツのテキストに十分習熟していない私のような者が、まともに扱えるテキストではない、というのが、正直なところです。
ただ、いつかはやらねばならない、というのもあり、来年に何らかの仕事を出すには、時間が差し迫ってきています。そこで、ブログという形で、少しずつ、情報をアップデートしつつ、ライプニッツ研究者をはじめ、みなさまと知識を共有できればと思います。
定本は、現在もっとも信頼できるテキストとして、オリジナルの手稿、および2つの写本を同時に掲載し、詳細な比較検討をほどこした、ロビネ版、
G.W. Leibniz, Principes de la nature et de la grâce fondés en raison・Principes de la philosophie ou Monadologie, publiés par André Robinet, Presses universitaires de France, 1954.
を用い、その写本Bを原典とします。
1. 原文
わたしたちがここで語ろうとするモナドとは、複合体のうちに入ってくる、ある単純な実体のことにほかならない。単純とは、すなわち、部分を持たないということである。『弁神論』§10*
LA MONADE dont nous parlerons ici, n'est autre chose qu'une substance simple, qui entre dans les composés ; simple, c'est à dire, sans parties.
*『弁神論』§10は、『弁神論』序論§10の誤り(フィシャン)
2. 解説
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3. 比較参照
a). 『弁神論』では直接モナドという言葉は§396に一度しか出てこない。ライプニッツが自筆草稿に指示した、『弁神論』序論§10には、次のようなことが書かれている。
『弁神論』§10:単純で延長を持たず、自然全体に行き渡っているような実体が、必然的に存在する。これらの実体は、神を除いて、他のどれとも独立に存続していなければならない。そして、それらは、あらゆる有機的物体から決して分離していない。
- 単純実体の他の単純実体からの独立性
- 単純実体の有機的物体からの非分離性
これらの両立を可能にするのが、単純実体。物体は単純実体ではない。では何なのか、というのが、『モナドロジー』を読み解く上で、重大な問題となる。
b). レッシャーやフィシャンらも指示するように、ライプニッツ死後の1718年に出版され、『モナドロジー』とほぼ同時期に書かれた、『理性に基礎づけられた自然と恩寵の原理』(以下、PNGと略記)と比較参照すべきである。
PNG, §1「実体とは能動的作用の可能な一つの存在者である。実体は単純であるか、複合的であるかである。単純実体とは部分を持たない実体のことである。複合体とは、単純実体あるいはモナドの寄せ集めである。モナス(Monas)というのはギリシャ語で、一性あるいは一なるものを意味する。・・・」
- 実体の定義。能動的作用(Action)が可能であることを本性とする存在者が実体。
フィシャンは、PNGが「複合実体」(substance composée)と語っているのに対し、『モナドロジー』では「複合体」(composé)というのを名詞化された形容詞としてしか用いず、単純実体しか他の実体として認めない、とする。
c). G VI, 585f 「フィラレートとアリストの対話」(1712)でも、「モナドしか存在しない、すなわち、単純あるいは不可分な実体で、具体的被創造的事物から真に独立しているものしか存在しない」と述べている。
- 真に存在するのは、創造主を除けば、単純実体であるモナドのみ。
4. レッシャーのコメンタリー
* ライプニッツは、デカルトやスピノザと同様、実体概念を中心とする哲学を展開。
* 彼らと同様に、実体の概念を、現実存在の独立的単位としての実体の伝統的観念(ens, un être)に適合させる。
* スピノザ『エチカ』1, 定義3:実体とはそれ自体において存在する何かあるもので、それ自体によって認識されるもの(quod in se est et per se concipitur)。
* 実体の不可分性の議論は、パルメニデスまでさかのぼれる。(万物は一つの不可分なもの。「多」の否定。この「存在=一」の説は、ライプニッツのアルノー宛書簡でも見られる。)
* 実体が真に一なるものであること。ライプニッツは実体を、部分を持たないもの、と理解した。
* 実体の定義には、物質的・物理的な構成要件が入っていない。ただし、何らかの性質ないし偶有を持たないと、何者でもなくなってしまう。
* したがって、その「記述的・説明的」な組成は、複合的である。
* 単純実体の単純性は、「空間的」単純性、すなわち、partlessnessとして解釈されねばならない。
* 部分を持たない存在者は、非物質的でなければならない。
* われわれが表象(知覚)するのは、モナドの結合的操作の結果。
* モナドは、いわば、形而上学的な点。それは、大きさを持たないが、測定可能な対象へと参与し(enter into)、それを組成するものである。
* モナドは単にこの世界の複合的事物へと「参与する」だけでなく、実際にそれらを構成する。
* どのようにして、モナドは複合的事物を構成するのか?というハードプロブレム。
* 複合実体とか寄せ集めの実体とは言っていないことに注意。
* “qui entre dans les composés”という微妙な言い方。
* 複合体や寄せ集めは、ただ慣例的に実体であるにすぎない。支配的モナドによる知覚を通じて統合されている、分離した単位の集まりにすぎない。
* モナドは、観察など、実験的経験でアクセス可能なものではないこと。科学、哲学、神学の事実を説明するための、理論的提案、仮説的存在者にすぎない。
* モナドという用語は、ファルデラ宛書簡1690 【1696の間違いか】で初めて使用される。
* 非延長的、非物質的な現実存在の単位。単純実体、エンテレケイア。
* エンテレケイアとは:ギリシャ語。アリストテレスが用いた。対義語は潜在。ライプニッツにおいては、魂あるいは完全(完足)性の原理となるもの。
* モナドという語を使い始めたのは、ライプニッツが最初ではない。Giordano Bruno (1591), Henry More (1671), F. M. van Helmont (1685).
* Monas(単位)という用語は、ユークリッド『原論』VII巻で用いられている。
* アリストテレスによって「あらゆる面で不可分」という意味で用いられた。『気象学』1016 b25e30, 1089 b35, etc.
* ピタゴラス主義者においては、monasは、数の生成原理(アルケー)であった。
* ジョルダーノ・ブルーノにおいては、モナドは、ライプニッツ同様、あらゆる事物の究極的な構成要素(最小者)であり、物理的・心理的な側面を両方持っていた(De monade, numero et figura. 1591)。【ライプニッツでは、モナドは心的存在者であり、物理的存在者ではない。またブルーノでは、モナドは神・魂・原子の3種あるとされており、類似性を読み込むのは、慎重を要する。】
5. 河野与一の注解
* ライプニッツが「モナド」という用語を初めて用いたのは、ファルデラ(Fardella)宛書簡1696.9.3。
* ファン・ヘルモントとの交流から、この言葉を知ったとする説がある。
* ブルーノ由来説があるが、確実な証拠はない。
* 「自然そのものについて」De ipsa natura, 1698という作品では、精神のことをモナドと呼んでいる。
* モナドという言葉はないが、個体的実体という用語は、すでに『形而上学叙説』(1686. 以下『叙説』)の中心的な用語であり、『モナドロジー』という作品を単独ではなく、個体論の形成の観点から捉える必要がある。
* 『叙説』で「個体的実体」「実体的形相」などと呼ばれ、「エンテレケイア」「能動的力」「原始的力」「真の(統)一」「形而上学的点」と呼ばれてきたものが、1696頃から「モナド」になった。【単純に言葉を置き換えただけではないことは、注意すべきである。】
* 物体や運動は部分を持つのに対し、モナドはこうした空間的規定を受けない、非物質的・非延長的なものである。
7. 池田善昭の注解
* ブルーノなど、モナドの歴史的な使用には、ライプニッツは無関心だったとする。むしろ、モナドという用語の採用は、伝統的な「個体的実体」や「実体的形相」に代わる、新たな表現法を模索した結果とする。そして、実体的統一やエンテレケイア、形而上学的点などと言葉を代えながら、モナドに落ち着いたのは、実体がもつ「個と全体」や「一と多」という両義性をシンボリックにしか表現できないためだとする。【しかし、これは普遍的記号法や思考のアルファベットを構想し、図像としての記号から直接、概念を得る方法を模索したライプニッツの考えに反するように思われる。いずれにしろ、ライプニッツにとって「シンボリック」というのは、特別の意味を持つので、「モナド」という語を採用したのには、それなりの理由があろう。モナドという用語を、その歴史的な使用から単に拝借したのではなく、独自の形而上学のうちに新しい意味を与えていることは、確かである。】
* 「単純」とは中心のこと、そこへと世界が集中していく中心のことで、これは、世界のいたるところにある中心である、とする。中心つまり点は単純だが、そこへと集中する線によって作られる角度の無数にある(PNG§2)。ここから、池田善昭氏は、「存在を考える際に、ライプニッツは幾何学ではなく力学がモデルになっている」とする。【池田善昭氏はPNG§2を引いているが、これは幾何学の範囲で十分理解できるし、そこから力学がモデルになっていると主張することはできない。一方で、ライプニッツにおける「存在」が動力学モデルである、とする解釈は、後期ライプニッツから読み取れる特徴である。他方で、モナドロジー成立の背景に、幾何学モデル、とりわけ位置解析など新しい幾何学の探究があったとする解釈は、De Risiの包括的研究によって、近年注目されている。おそらくほかにも、様々なモデルを読み取ることができるであろう。】
8. 参考文献
G.W. Leibniz, Principes de la nature et de la grâce fondés en raison・Principes de la philosophie ou Monadologie, publiés par André Robinet, Presses universitaires de France, 1954.
G.W. Leibniz, Discours de métaphysique suivi de Monadologie et autres textes, Michel Fichant éd., Gallimard, 2004.
Nicholas Rescher, G. W. Leibniz's Monadology: An Edition for Students, 1991.
ライプニツ『単子論』、河野与一訳、岩波文庫、1951。
池田善昭『『モナドロジー』を読む』、世界思想社、1994。
ライプニッツ『モナドロジー』、西谷裕作訳、『ライプニッツ著作集 第9巻 後期哲学』、下村寅太郎ほか監修、工作舎、1989。