labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツにおける観念と概念の区別についてのメモ。

以下はライプニッツィアンかつ初学者向けの記事です。
以前の記事で、観念と概念についてかなりいいかげんな感じで触れてしまいました。お詫びをかね、良く言及される典拠と簡単なメモを付けて提示しておきます。何がいい加減だったかというと、観念と概念が区別されている場合の規準は、acteかconçuかではなく、思惟の能力facultéか思惟されるものconçuかの違いでした。"acte"は「働き」の意味だけでなく「現勢」あるいは「現実態」の意味もあって、規準としては機能しますが、あり方としてはまったく反対のことになってしまいます。せめてあり方との対応を合わせて"puissance"(力能あるいは潜勢ないし可能態)とすべきところでした。申し訳ありません。以下、抜粋とコメントです。



1) Specimen calculi universalis, 1679(?), A VI-4, 288; C. 243
"Per Terminum non intelligo nomen sed conceptum seu id quod nomine significatur, possis et dicere notionem, ideam."
「項によって名前ではなく思念あるいは名前によって表示されるものを知解する。それを概念あるいは観念と呼ぶこともできる。」
※『普遍的計算の試論』(1679?)は、中期の論理学の中心的テクスト『概念と真理の解析に関する一般的研究』(1686)を準備する重要なテクストであるが、そこでは、項(terminus)、思念(conceptus)、概念(notio)、観念(idea)が等値されている。良く引用される箇所。

2) Discours de Métaphysique, 1686, VIII, A VI-4, 1540
"Or il est constant que toute predication veritable a quelque fondement dans la nature des choses, et lors qu’une proposition n’est pas identique, c’est a` dire lors que le predicat n’est pas compris expressement dans le sujet, il faut qu’il y soit compris virtuellement, et c’est ce que les philosophes appellent inesse. Ainsi il faut que le terme du sujet enferme tousjours celuy du predicat, en sorte que celuy qui entendroit parfaitement la notion du sujet, jugeroit aussi que le predicat luy appartient. Cela estant, nous pouvons dire que la nature d’une substance individuelle, ou d’un Estre complet, est d’avoir une notion si accomplie, qu’elle soit suffisante, a` comprendre et a` en faire deduire tous les predicats du sujet a` qui cette notion est attribue´e. Au lieu que l’accident est un estre dont la notion n’enferme point tout ce qu’on peut attribuer au sujet a` qui on attribue cette notion. "
※個体的実体の本性はその完足概念を持つこと。ここでは「概念」として"notion"が使われていることを確認。

3) Discours de Métaphysique, 1686, XXVII, A VI-4, 1572
"Ainsi ces expressions qui sont dans nostre ame, soit qu’on les conc¸oive ou non, peuvent estre appelle´es ide´es, mais celles qu’on conc¸oit ou forme, se peuvent dire notions, conceptus."
「われわれの魂[精神]の内にある表出は、それらを考えていようといまいと「観念」と呼ばれうる。対して、われわれが考えるものあるいは形作るものは「概念」、「思念」と言われうる。」
※ここでは観念(idée)と概念(notion, conceptus)をそのあり方において区別している。ライプニッツにおいて、思考に現前しようとしまいと観念は潜在的に魂の内にあるものとされる。むろん、生得観念説がその背景にある。
また、notionに対応するラテン語としてはnotio、conceptusに対応するフランス語としてconceptをライプニッツは用いるので訳し分けはしたが、notionとconceptはここでは明らかに同義なものと想定されている。

4) Quid sit idea ? 1677(?), A VI-4, 1370
  "Ante omnia IDEAE nomine intelligimus aliquid, quod in mente nostra est, vestigia ergo impressa cerebro non sunt ideae, ..."
「そもそも、われわれは<観念>という名前で、「われわれの精神の内にある何かあるもの」を理解している。ゆえに脳に刻印された痕跡は観念ではない。…」
デカルトとともに、スコラの認識説の否定を端的に明言している箇所。
  "Multa autem sunt in mente nostra, exempli causa, cogitationes, perceptiones, affectus, quae agnoscimus non esse ideas, etsi sine ideis non fiant. Idea enim nobis non in quodam cogitandi actu, sed facultate consistit, et ideam rei habere dicimur, etsi de ea non cogitemus, modo data occasione de ea cogitare possimus."
「ところで、われわれの精神の内にある多くのもの、たとえば、思惟、表象、感情などは観念がなければ生じないが、それらが観念ではないことをわれわれは知っている。実際、観念はわれわれにとって何らかの思惟の現実的働きactusにではなく思惟の能力facultasに存する。たとえある事物に関してわれわれが思惟していなくとも、与えられた機会にその事象に関してわれわれが考えることができれば、われわれはその事象の観念を持っていると言われる。」
※「観念idea」は思惟の能力に存する何か。引用に見るように、観念はそのあり方において「思惟可能性」と関わり、現実性、顕在性とはおよそ関係がない。(すなわち、観念は<思惟の態勢dispositionを持つもの>として提示されている)。また、われわれは観念について能動的に思惟する能力とともに、それらを受容する能力も持つ。「それゆえ、観念は事象について思惟する何らかの近接的な能力すなわち素質を要請しているIdea ergo postulat propinquam quandam cogitandi de re facultatem, sive facilitatem」。

では思惟可能であれば観念を持っていることになるのか、といえば、それだけでは十分ではない。
そこでライプニッツは思惟可能性とともに、「表出」(すなわち関係に関する類比)を条件とする。
後半では心の因果論の観点から、観念の原因が問題にされる。そして、諸事象に関するわれわれの精神の内的対象として観念がある、というわれわれ人間の観念の能力をもたらした起源として、観念一般と事物一般の作者である神が導入されることで、観念からの真理の導出可能性が保証される。詳しい分析については、Quid sit idea ? 本文を参照されたし[邦訳は『著作集』8巻, 20-22]

5) Meditationes de Cognitione, Veritate et Ideis, 1684.11
ライプニッツの認識論が確立しそのエッセンスが提示されるこの論稿では、「概念notio」は、分解されたり複合されたりなど、論理的操作を受け付けるものとして用いられる。
概念も観念も思惟の対象となりうる点では、両者に区別はない(Cf.観念は「思惟の内的対象」。 DM,§26 ; NE,II,1,1 et II,10,2)。しかし、概念が分解を通じて矛盾を含んでいることが判るときがある。その場合、われわれはその概念に関する観念を心の内に持っているとは言えない。すなわち、われわれがあるものの観念を持つというとき、その直観的な認識を持つか、その観念を分析したときに論理的な矛盾を含まない概念を持つことを意味する。「われわれは不可能な事象の観念を持っているわけではないnullam utique habemus ideam rerum impossibilium」(A VI-4, 589)。ここでも、観念はその「可能性」と不可分である。可能な概念が真な観念、不可能な概念が偽な観念である。偽な観念は心の内にはないものなので、不可能な概念はその指示対象を持たない、いわば「空虚な」概念であるということが言えるであろう。
そしてあるものの観念を持つことはあるものを単に意識することと区別される。"neque enim statim ideam habemus rei, de qua nos cogitare sumus conscii, quod exemplo maximae velocitatis paulo ante ostendi" (A VI-4, 590).
現実に表象されているかされていないかのいかんに関わらず、精神の内にあるものとして観念が捉えられていることは、一貫されているように思われる。われわれに現実的に思惟されていないときでも、事象の観念はわれわれの精神の内にある。"rerum vero actu a nobis non cogitatarum ideae sunt in mente nostra, ut figura Herculis in rudi marmore."(A VI-4, 591)。

6) Definitiones: aliquid, nihil, 1679(?)
観念とは能動作用するものの精神の内にある概念であり、それに対して能動作用者が類似の結果を与えようと欲するものである。」"Idea est conceptus in mente agentis, cui vult similem reddere effectum."(A VI-4 369 ; Cf. A VI-4 305)
※因果論の観点から観念の形而上学的定義を与える文脈だが、ここでは観念は動作主体の精神の内にある概念とされる。ここでは概念と観念の区別は明確ではない。



概念と観念の区別が判ればいいのであまり踏み込みませんでしたが、ひとまずこんなところでしょうか。結局、改めて見直して判ったことは、ライプニッツの思想は暫定的な結論も出せないほどよく判らないということです。
良く知られるように、ライプニッツは観念と概念を一貫して区別しているわけではありません。ただ、反例はありますが、形而上学的厳密さを求められた場合に、両者をきちんと区別する傾向がある、ということは言えそうです。更に理解を深めるには、神学的側面を含めてライプニッツの観念の理論が体系的に研究されなければなりません。
ライプニッツの哲学において観念と概念の区別が何か決定的に重要な意義を持つものなのかどうかは、まだ今後の検討課題です。お粗末でした。

最終更新25/10/2009