labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

有限の形而上学via negativa。

3時起床。昨日読んでて寝落ちした続きから。予定の箇所まで読んで、二度寝。8時から昼まで、読んだところのレジュメとあれこれ考察。
昼、ピザ半分。ラテン語翻訳、すぐに限界きて論文読みに逃げる。それも限界がきて仮眠。ヘロヘロだけど、なぜかジョギングに行く。なんで走るんだろう、という良くある内省から始まって、議論は自分では体系化しようのない途方もないところまで飛んでいった。考えているときはそれなりに面白かったので、毎度の泥酔をはずみに書いてみる。走っているときは、もう少しきちんと考えていたと思うが、その再構成はもはやできない。
なぜ走るのか。好きなのか。「好き」の概念ないし様態がある「不満」の概念ないし様態から導出されるのならば、「好き」と言えるかもしれない。いろいろと不完全だから不満なのであって、そこからある完全性への要求によって走るのであろう。少なくとも自分という人間にとって原初的なのは、この不完全性であり欠如であって、むしろ否定の操作や負量の概念こそが原初的であり生得的に思われる。神の存在証明で否定概念が使われるのも、これで説明がつくかもしれない。在るのではなく無いのである。「なぜ何かが有るのか」ではなくて、「なぜ何かが無いのか」が問題なのである。人間にとって、原初的な概念は本性的に否定的であり、したがって¬AからAは実際には二重否定除去則を用いずに導出され、実際にはさながらB(:=¬A)から¬Bを導いているのだ。「好き」というのは欠如を埋めようとするわれわれの欲求の別名にすぎないのだ。「嫌い」というのはそれを欠如と思わないことにすぎないのだ。「嫌いは好きの裏返し」というのは、それを欠如として感じているが、それを隠そうとして満足を装っているにすぎないのだ・・・。原初的な有限性からどう形而上学を立ち上げるかについて考えた、一時間と三週。酔ってさらにヘロヘロ。単なる狂者の推論。
夕食は、買出しにいけず残りもので料理を作る気力もなく、昨日同様ワインとバナナ。