labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ひんやりと快適な日。今日は積分の日。数学は楽しいけど、しょせんど素人の手遊び。やるなら本気でやらないと意味がない。数学的素養がなければなおさら。どうしようかと悩んでいるうちに十年が経過。計画的にやっていれば、もう少しモノになっていたろうに。あるいは数覚*1がなかっただけのことかもしれない。以下またくだらないことを書いてしまったので略。その略した部分を抽象してみると、単に好奇心だけでは、人は動けないということらしい。動くには、今の状態は不安が大きすぎるようだ。もっと不安が増えれば、どこかに転がっていくはず。動けない程度に、ほどよいくらいの不安。これはたちが悪い。大多数のニートやひきこもりは、この状態にあると思われる。

夕方、DECATHRONに下着類を買いにいく。ジョギングや自転車にも使えるアンダーウェアも買いたかったけど、閉店間際で間に合わず。

十分遊んでいるのだが、何だか物足りない。旅行でもしたら、また研究のやる気もでてこようか。週末は少し遠くに出てみようか。バスに自転車を積んで、他の街を散策してみるのも悪くない。アルル〜レ・ボー間は、本当に楽しかった。カマルグ〜アルルを回っていったりするのも、長距離の訓練にいいかも。夏には、フランスの他の地域やイタリアにでも行ってみようか。しまった、そうするなら、ユースホステルの会員になっとくんだった。いちいち計画性が足りない。

追記。はてな市民権獲得。

*1:数学的センスのこと。いわゆる五感のほかに、数覚がある、とする主張は小平邦彦に由来する(『怠け数学者の記』、岩波現代文庫、2000年)。実際に数覚を真顔で論じる数学者をお目にしたことがある。原書が手元にないので、その方から伝え聞いたことをもとに以下まとめる。「数覚」論によれば、数学ができないのは、頭が悪いからではなく、単に「数覚」という感覚の一種が先天的に欠如していたためである。確かに感じるところではあるけれど、その主張に何か科学的な根拠はあるのだろうか。哲学的にはナンセンスというかトリヴィアルな主張のように思う。そのテーゼを抽象すると、「Aができるのは、Aに関わるある特別の感覚をその人が備えているからである」というものである。これでは、何でも説明できてしまう。また、数覚は単なる名称にすぎず、数覚が何であるか、その分析が問われるからである。少しがんばってみると、「数覚」論で注目すべきところは、数学に特有の能力として数学的発見などをつかさどる数覚を提示した点にある。これは、先の頭の良い悪いうんぬんを、推論など、知性が持つ論理的な能力として措定すると、数学と論理学の違いとして、この「数覚」があることになり、それは感覚の能力の一部である。哲学史的には、少なくとも近代まで、「共通感覚」および「想像力」が数学的対象を認知する部分あるいは能力として考えられてきた。しかし、共通感覚および想像力は人間ならば誰にでも備わっている器官ないしはたらきであって、数覚とは根本的に身分が異なる。また、一部の人間だけに専有的に備わっている感覚があるとするような考えは、あったかもしれないが少なくとも主流にはならなかった。それはカテゴリー的伝統に反する。数学的発見の際にはたらく心的対応物を説明するものとして、数覚が考えられているならば、それは単に想像力の別名でしかないだろう。その場合、数学的想像力よりも短く的確な用語としての価値はあるかもしれない。どうも、数覚として、主に幾何学における発見の事例が想定されているようなので、より想像力とかぶるように思われる。分野によって、はたらく数覚も異なるとすると、幾何的な数覚、代数的な数覚、解析的な数覚などへとさらに分類できるかもしれない。原書ではもっと掘り下げて論じてくれているかもしれないので、気になる人はぜひ直接原書に当たってみてください。まさかこんな単純な主張ではないと思うし、そう期待するので。