ライプニッツのメレオロジー
第2回ライプニッツ協会(2010.11.13-14)における、松田先生の発表論文「ライプニッツのメレオロジー序論――多元論か一元論か」を読む。
研究がかぶっているところもあって、一方では興味深く、他方では恐れ多くも批判的に読むことをこころがけた。
巷では流行っているとされる分析形而上学からのアプローチであるが、ライプニッツに関してはまだまだこれからという感じである。松田先生はライプニッツ研究者の立場から、その先鞭を切ってみせた。
論文は、情報量は多いと思うのだが、これぞ、という論点に欠ける印象である。松田先生ご自身も、「見通しがたい「無限の課題」に接近するための有効な方法をライプニッツが何か残してくれたかどうか…見定めがたい」としているように、まだ「連続体の合成の迷宮」に対する、ライプニッツの独自なアプローチを見いだせてないようである。
現代のメレオロジーの観点からライプニッツの形而上学を考察するというテーマの大きい議論であるが、まだまだ検討すべきところはありそうである。現代のメレオロジーを応用してライプニッツの形而上学を読み解こうということだと思うが、今回、メレオロジーの応用によって明らかになったことは何であろう?個人的には、ライプニッツ自身の部分全体関係の形而上学が、もう少し丁寧に紹介・整理されていたら、ありがたかった。もっとも「序論」であるから、ここで提示されたのはほんの導入的な部分にすぎないのだろう。ただ、こちらの知識不足のせいだと思うが、ハショリすぎていてよく分からない部分もあった。あと、本稿では『定義集』という遺稿に注目しているが、まさに部分全体関係が連続律によって扱われる、『数学の形而上学的基礎』などではなく、『定義集』に注目することの独自な意義は何なのかなど、ライプニッツの哲学の発展史の部分がわかるとおもしろい。
分析系の論文を目指すのであれば、ライプニッツのメレオロジーを定式化するところまで追求しなければならないだろう。ライプニッツのメレオロジーに関しては、先駆であるBurkhardt&Degenの仕事が参照されていなかったが、あまり評価されていないのであろうか。本論では、モナドのメレオロジーはまだフォーマルに与えられておらず、最後にその展望が述べられるにとどまる。
しばらく別の仕事をやっているうちに、連続体の問題に関しては、松田先生にまた思い出させていただいたところがあるので、ここらでそろそろ本気を見せておかねばと思うのだが、どこまでできるかは不安という今日この頃であった。今年は国際発表をどんどんこなさないといけないし、論文もどんどん書いていかないといけない。哲学に関しては焦る必要はないと思うが、就職に関してはもっと焦らないといけないなあ。