個体の合成の原理としての「生命」
松田毅先生の「ヴァン・インワーゲンの「生命」――ライプニッツとの対比から」を拝読。
松田毅編『部分と全体の哲学:歴史と現在』春秋社、2014年所収。
- 作者: 松田毅
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2014/11/22
- メディア: 単行本
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とても興味深く読んだ。ざっと、考えていたことをメモ。まだあまりちゃんと検討していないので、誤解だらけだと思う。
ライプニッツもヴァン・インワーゲンも、物質が、「部分」の総和にとどまらない「全体」をなす場合、そこには「生命」の概念に鍵があると見ていた。
ライプニッツは、単純実体が合成されてできた複合実体ないし身体が、単なる寄せ集めであることをを越えて、「同一の個体」であるためには、「生命の存続する原理としてのモナド」が不可欠であるとした。
個体をバラバラの部分の寄せ集めではなく、一つの全体をなすものたらしめているものとは何か。ライプニッツは、その同一性の原理(すなわち個体化の原理)として、モナドを措定した。
しかし、同一性の原理をモナドに追いやったところで、なぜ、それによって同一性が付与されるのか、という「形成」ないし「構成」の問題は、これだけでは何も解決しないだろう。
ロックも同様に個体化の原理として「生命」を論じるが、Ayersが批評したように、いかにして、「生命」は個体の統一を「構成」するのだろうか?
インワーゲンは、「どのような条件のもとであるものは何かの部分となるのか」という「特殊合成問題」に取り組んだ。
新しい存在者をもたらすような、合成の条件とは何だろうか。
この問題を考えるため、インワーゲンは、「接触」、「結合」、「凝集」、「溶け合い」、「ニヒリズム」、「普遍主義」、「生命」について検討する。検討内容は省くが、まず合成の条件は、衝突問題などで17世紀にも古典的に扱われた「接触」や「結合」、「凝集」ではない。また、二つのものの境界がなくなる「溶け合い」でも不十分である。合成は存在しないとする「ニヒリズム」は、合成的存在者の極端なデフレを招き、合成された生命かどうかあいまいな事例にも対処できない。そして、複数対象からの合成は必然的に存在するとする「普遍主義」も、部分の概念の有意味性を保てず問題がある。
部分が全部入れ替わっても、有機体の耐属を認める条件が必要である(いわゆる、「テセウスの船のパラドックス」の問題)。こうしてインワーゲンは、合成の原理として「生命」を導入する*1。「生命」は、変化する部分とは論理的に区別される「システム」である。
このようにして、インワーゲーンも、原始概念として「生命」を捉えているが、あまりまだ納得のいく、というか、腑に落ちた感じがしていない。果たしてこのような仕方で、個体の合成の問題を理解したと言えるのか、私には疑問なところがある。「形而上学」という分野によるアプローチの仕方に、そもそも限界があるのかもしれない。つまり、「生命」そのものを捉えるには、概念分析では限界があるのかもしれない*2。「生命」を原理ないし原始概念として、そこから出発することには、科学的な理解という観点からして、やはり問題があるような気がしている。いちおう生化学などの科学を踏まえて、概念分析をしているようであるが、うーん。
他方で、原始概念とされるのは、いわばブラックボックスの、「謎」の部分であるから、ここに問題の核心がある、ということでもあろう。
「連続体の合成の迷宮」に、「生命」がからんで、その概念が解決の糸口であると示唆されているわけであるが、むしろ、ますます謎が深まった、というのが、正直な印象である。が、哲学的には、悦ばしいことなのかもしれない。「連続体の合成の迷宮」に、現代の諸科学から、「生命」や「情報」、「知覚」や「意識」の問題を踏まえて、現代的にはどこまで明らかになっているのか、いったいどういう説明が可能なのか、ということが知りたい。けれども、どうしたらよいのか、途方に暮れている。
「連続体の合成の迷宮」を現代的に解決するために、いかなるアプローチが望ましいのかが、今もっとも気なる課題である。(とりあえず、インワーゲンのMaterial Beingsは昨年読みはじめていたけど、積ん読になっていたので、ちゃんと読みたい。)