labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

今日は外出する予定だったが,体調が思わしくないので,自宅で養生.

朝,いろいろ.そうか・・・そういうことだったのか.別件でやっていた仕事とも,見事な具合にテーマがつながってきた.ほんと,繋げるのだけは得意だこと.疲れたので寝転びつつ,読んでた一次資料の註に参照に挙がっていた,ライプニッツのボシュエ宛書簡の英訳をさくっと読む.

自分にとって重要なのは,compossible/possibleの区別をしていることころ.だいたい知っていることだけど,この書簡でライプニッツはpossibleの定義を述べているので,それだけメモしておく.それによると,possibleとは何であれ完全に認識可能なものであり,結果として,ある本質あるいはある観念を持ち,残りの世界が,それが現実存在になることを認めるかどうかという問いを提起することのないものである.なるほどなー.正確を期すには原典を見ないといけないが,だいたい気持ちはわかった.

あと,点と瞬間の区別を,後者がcausationに関わるところに見ていること,および、必然的真理に関しては、「自然によって後」から「自然によって先」へと分析されるのに対して、偶然的真理あるいは現実存在にかんしては、この分析が原初的要素に還元されることなく無限に続く,としていること.
数と瞬間のアナロジーも,したがって同様に拒否される.natura priusについては師匠の論文で勉強したのが,今でも役に立ってるな.さすが.

それから,divisible/resolvableの区別.後者はより単純な概念への分析である.前者は,部分への分割であり,より単純な概念に分析するわけでは必ずしもない.例として分数.

面白かったのは,植物もperceptionを持つ,とする議論.えっ, トンデモ?と思われるかもしれないが,そこはライプニッツの微小表象の理論や,表象の度合いについての理論を思い出してほしい.ライプニッツは,むろん植物の表象が何に存するかをはっきり述べることはできないけれども,植物が一性の内に多様性を持つことで,表象を持つとみなすのに十分とする.多における一,というのは,表象の定義である.そして,欲求appetiteを持つことも,新たな表象を持つことへの傾向性を見て取れれば十分とする.これも,モナドジーに出てくる,欲求の定義から.つまり,植物の活動もまた,表象/欲求のモデルで説明できるでしょ,ということである.

読んでいて,そろそろ,というかいいかげん,ライプニッツの「現実存在の論理」をきちんと整理しなくてはいけないなと思えてきた.これは,空間論の論理形而上学的基礎に関わってくる大事な部分.まあ,いろいろあって大変だ.着実に歩を進めるしかない!