labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

アグレガシオンの講義。

六時起床、予習。師匠の講義。質問がパッと理解できず、想起の速度も遅く、少しトンチンカンな回答。少し後で思い出してあわてて修正。ごく基礎的な事項もうろ覚えで、赤面せざるをえない。基礎事項の確認をそこそこに、講義は高度なところを駆け足で進んでいく。
師匠の許可を得たので、その後のアグレガシオンの講義にも出席。前から出られるものなら出てみたいと興味本位に思っていた。しかし、外国人にはおよそ無関係なことだし、ひやかしと思われるのもいやなので控えていた。当然だろう。しかし、自身の哲学を鍛えるためにはやはり出たい。友人にアグレガシオンの講義って(部外者が)参加してもいいのか?と聞くと、友人が結構軽い感じで出れるんじゃない?でも論文の書き方など試験の方法論的なことが主で、君の関心に合うかは疑問だけど、とのたまう。先生に聞いてみると、出るならアグレガシオンを受けないといけないよ、と(ご冗談を)言われるが、いずれにせよ聴講の許可は案外あっさりと下りた。ドキドキ。
テーマはエグジスタンス。存在。メインはアリストテレスデカルトライプニッツ、カントなど古典。しかし、プラトンからカプランまで考察する、壮大だが緻密で深遠な講義。ウーン、参った、というのが正直な感想。いったい、どういう勉強をしたらそのようになれるのだろうか。講義は、学生がdissertationを準備して発表し、先生が論点を深め、模範回答を示し、そしてテーマについて講義をするという形式。自主的な学生ほど、伸びるシステム。10人ほどいるが、この中で合格する人は一人いるかいないかだろう。地方というのはさらに不利である。この殺伐とした雰囲気や良し。フランスでは哲学は闘争なのだ。
たしかにアグレガシオンは、一方でフランスの哲学のニヴォーを高度に保つ役割を果たしている。だが他方で、課せられる課題のために学生の選択は必然的に古典にしぼられ、哲学が保守的・閉鎖的になる原因にもなっているように思われる。たとえば現代の分析哲学の立場から当該テーマについて述べるのは自由だが、試験官にその知識がない場合が多分に想定されるので、やはり不利になる。現代の分析哲学について述べつつ、古典とのつながりや断絶を明確に説明したのであれば、評価の対象になりうる。いずれにしろ、古典の知識は必須なのだ。その結果、学生も哲学史に偏るのであって、うちのエピステモロジー専攻には現在、修士の学生がいなかったりする。まあでも古典に関する基礎教養を試験を通じてみっちり叩き込まねばならないのは、自分らにはない経験で、ちょっとうらやましい。

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CAFから、「銀行カードの番号を聞くメールが届いても、決して返事を出さないで下さい」との主旨のメールが。何らかのかたちで個人情報が漏洩したのだろうか。こわいこわい。