「注意力」について。
「注意力」が足りない――。そう想った。
朝、出かける前に掃除をしてたら、前に割ったコーヒーカップの破片で左手親指をザックリ。
止血まで一時間ほど。その間、血判状を作ったりして遊んだのは、言うまでも無い。
その後、大学でノルマと研究。
そもそも。「注意力」とは何であろうか――。そう思った。
デカルトでは「精神の集中」ないし「精神の洞察」と関わる悟性の本性認識のはたらきであり、ライプニッツにおいては潜在的かつ生得的な知識ないし真理を「意識的表象」にもたらすために不可欠な精神のはたらきである。ここでは、哲学の理論的文脈ではなく、より日常的次元で語っているライプニッツの次の言葉に注目したい。
「注意は必要によって取り決められているl'attention est réglée par le besoin」(Nouveaux essais sur l'entendement humain, I, 1, 25)。
すなわち。各人の「注意力」というのは、実生活上の必要に応じて、各人に相対的に、習慣的に形成されるものである。子供が食べ物や遊びにばかり目がいくように、そして青年が異性にばかり気がいくように。こうは言っているが、ライプニッツがそのことで言いたいのは、「注意」が日常の必要によって決定されるという経験論的学説では実はまったくない。その意図は、生得的真理の認識のためには、われわれの注意力を感覚的世界から叡智的世界へ、すなわち顕在的かつ経験的な認識から潜在的かつアプリオリな認識へと集中させなければならない、ということにある。
つまり。「注意」というのは、(1)一方でそれが向かう対象を経験的に規定されるという、依存的で受動的側面を持つ。だが他方で、(2)それが向かう対象を意図的に指図できるという自律的で能動的側面も持つ。
さて。何が言いたかったのだろうか――。そう省った。
なぜケガをしたのか。上の分析から、(1')「コーヒーカップの破片」への注意が実生活の必要となるほど経験的に形成されていないこと、そして(2')わたしがそれを注意の対象として意識的に指定していなかったこと、という二点が浮かび上がる。この場合、どちらに重みがあるのかといえば、合理性の価値を認めるものであれば誰でも、(2')と答えるだろう。
したがって。ケガをしないためには、わたしの「注意」を、潜在的な不測の事態に向けて集中しなくてはならない。
ところで。それはいかにしてか――。そう惟った。それを判明に認識していないところの潜在的認識に、いかにして「注意」を払えばよいのか。あらかじめ注意の対象を絞れればある程度対策はたてられよう。その場合、「注意力がある」というのは、注意の対象を合理的に絞ることができる性質を指すだろう。それができなければ、どうしたらよいかちょっと想像もつかない。地震の予測についての経験的でないアプリオリな仕方がないように、人生全般に関して「注意深くある」ことはできない。「潜在的な不測の事態」というのは無数の可能世界である。そこへ向けて集中できる者は、無限者だけである。有限者にとって、どの対象に「注意」するのかは、たいていの場合、賭けに等しい。備え有っても憂い有り。賭けるのが合理的ならば、賭けよう。では、賭けたまえ。
いずれにせよ。もっと「注意力」がほしい――。そう念った。