labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

共通感覚と共通概念

数学と認識、この関係を考えるに当たり、伝統的哲学を研究しているものにとってまず問題になるのが共通感覚(センスス・コムーニス)の位置づけではないだろうか。なぜなら共通感覚(コイネー・アイステーシス)は諸感覚に共通する形や数、大きさなどの対象が形成される場所として伝統的に考えられてきたからである*1。たとえば「滑らか」は、すべすべしていたりつるつるしているなどの触覚的な感覚であるが、平らであったり角のない緩やかな事物の特徴に対して視覚的にも用いられ(「滑らか」な連続曲線など)、音程の変化の激しくない音階にも適用可能な聴覚的概念でもあろう。また「まろやか(円やか)」などは、形がまるいことが転じて味などがおだやかなさまを言い、これは触覚、視覚、味覚に共通する概念と考えられる。

理性ないし知性や想像力との関係を考える上でも、共通感覚の位置づけはできるだけはっきりさせておきたいところ。そこで、「共通感覚」について調べるに当たり、まずは、古いけど標準的な辞典であるラランドの哲学辞典でおさらいしてみることにします*2

共通感覚

仏. Sens commun 独. あらゆる感覚のGemeinsinn ; B. C. Gemeiner Verstand, Einfacher Verstand ; - 英. Common sense ; - 伊. Senso commune

ラランドは大きく三つの意味に分けている。(あくまで数学的認識における共通感覚に関心があるので、今回はB, Cは略。ただし、あとあと関わってくるかもしれない)。

(A)古典的には、コイネー・アイステーシスκοινή αἴσθησις(希)、センスス・コムーニスsensus communis(羅)の翻訳であり、諸感覚を統合する機能をもつ中枢的感覚を意味した。「諸感性にある同一の対象を結びつけ、そこを通ってその知覚をわれわれにもたらすことで、各々の特殊感覚に固有な諸感性を組み合わせる機能をもった中枢的感覚のこと」。
共同体感覚Gemeinsinnは、カントによって、ある普遍的価値の感情によって美を識別する能力に割り当てられた。ただし、カントはこの美的共通感覚を「われわれが同様にGemeinsinn (sensus communis)と名付ける習慣のある」Gemeiner Verstandからはっきりと区別する。前者は概念なしに判断するが、後者はそうではない(『判断力批判』,I, I, §20)。

(B)スコットランド学派、英国経験論に由来する、いわゆる「常識」の意味でのコモン・センス。精神の不変の基礎、不可欠な本性で、理性のうちにあるが理性そのもというわけではない、あらゆる人間に共通の概念、明証的原理、原初的で率直な判断のこと。以下略。

(C)人々に一般的に受け容れられている意見の集合、すなわち一般常識という現代的意味でのコモン・センス。以下略。

ラランドはこの項目の脚注解説でライプニッツを引き合いに出しているので、それに注目してみよう。

ラランドは、「共通感覚という表現が、たしかに二つの独立な起源をもち、またそれらから各々導かれるまったく異なる二つ意味を持つにもかかわらず、一方から他方へ、ある交通が確立されている」とする。そして次のテクストの参照を指示している*3

空間・形・運動・静止の観念のように、一つ以上の感官に由来すると言われている観念は、むしろ共通感覚すなわち精神そのものに由来します。というのも、これらは純粋知性の諸観念だからです。でもそれらは外部との連関を持っていますし、感官がそれらに気づかせます。それゆえ、それらの観念は定義と証明もまた受け容れることができるのです。*4

ここに現れている意味での共通感覚の受容は、Aの意味においてのみであるとラランドは分析する。(これは、アリストテレスの共通感覚を分析しないと主張できないので、とりあえず判断を保留。)


共通概念

他方でラランドは、「共通概念(共通知見)koinas ennoias」という、各々の共通の知的本性を表現する限りで、あらゆる人間に共通な概念にライプニッツが達していたとする。この能力はデカルト的な良識bon sensに同値であり、そのために折衷派は共通感覚と呼び、しばしばその語の適用の際、当時に受け容れられた一般的意見と混同された、とする。

ラランドの指摘するように、ライプニッツにおいては共通感覚と共通概念のあいだにはある密接な交通がある。ただし、ライプニッツにおいて共通概念(ないし共通感覚)と一般的意見との混同はないことを強調しておかねばならない*5

良く知られているように、「共通概念notion commune」はNE序文ですでに言及されている。そこでは、共通概念は、心のうちに隠蔽されているが、感覚が機会原因となって呼び起こされる諸概念ないし諸原理のこととして理解されている。すなわち、共通概念は「生得的観念」ないし「生得的原理」である。そして、ストア派の哲学者たちはそうした原理をプロレープシスすなわち根本的仮定と呼び、「数学者たちはそれらの原理を共通概念notions communes; koinai ennoiaiと呼ぶ」(NE, préface, 38)としている。

このように、共通概念はプラトンの想起説が理論的な下地になっている*6。したがってその言及がほとんどされないにも関わらず、ライプニッツの生得説と関わる点で共通概念の位置づけは極めて重要である。すなわち、感覚なしには原理を思惟しようなどとは思わないが、感覚はあくまで共通概念を想起する機会であって、数学的命題はそれらを根本的前提として理性によって証明される。ライプニッツは「ユークリッドがこのことをよく理解していたので、経験や可感的な像によって十分に知られることを、しばしば理性によって証明するのである」(NE, préface, 38)と述べている。アリストテレスも『分析論後書』で述べるように、幾何学者は、たしかに図形を用いるが、そのことで、その特殊な存在に結論を基づけいると勘違いしてはならず、ただ図形によって例証(illustrate)しているのであって、たとえ作図証明であっても、その証明はより一般的なことにさし向けられているのである。

ところで、ライプニッツが述べた、数学者の言う共通概念とは、むろんユークリッド『原論』の「共通概念」のことである。参考までに、ごく簡単に確認しておこう。これについては踏み込むと相当に大変であり、いくつかの注解や英訳・仏訳などを参照しなくてはならないところだが、ひとまず最近出た労作の邦訳を参照に、まとめてみたい。

「共通概念」(コイナイ・エンノイアイ)は、公理(アクシオーマタ)と同義である。それは、要請[公準](アイテーマタ)と共に、証明なしに承認することが要求される命題のことである。では、公理と要請はいかに区別されるのか。要請が幾何学的命題に限定されているのに対し、公理は数学全般で成立する命題を意味する*7

具体的にどのようなものが公理とされていたのか。

1. 同じものに等しいものは互いにも等しい。
2. そして、もし等しいものに等しいものが付け加えられたならば、全体は等しい。
3. そして、もし等しいものから等しいものが取り去られたならば、残されたものは等しい。

などなど*8

見ればすぐに分かるように、公理の基本的関係は、「等しさ」である。例外は、

8. そして、全体は部分より大きい。

である*9。「より大きい」の定義がなされることなしに、ここで唐突に大小関係が導入されてしまっているのだから、ホッブズライプニッツがその公理の論証を試みたのは、現代からみれば、ごく自然な反応で、何ら特別のことではないように思える。

ユークリッドが「共通概念」ということで何を理解していたかを知るに当たっては、その「もと」である、アリストテレスを参考せねばならない。以下では手始めに、ヒースの解説を参考にしつつ、アリストテレスの議論をまとめてみよう*10

まず、アリストテレスが『分析論後書』で、
(1)あらゆる演繹的学問は必然的原理から出発せねばならないこと、
(2)第一原理は証明不可能な真理であること、
(3)その存在に関しては、原理に関しては想定されねばならず、残りは証明されねばならないこと、
を主張していたことを思い出そう*11
算術では、単位とは何か、幾何学では、線・三角形・大きさとは何かが想定される。また、算術では単位の存在が、幾何学では大きさの存在が想定される。ここでは、「何であるか」の想定と、その「存在」の想定は、たがいに別問題であることに注意せねばならないことを喚起するにとどめておく。
さて、論証的学問において前提されることは、各学問にとって、特殊であるか、共通であるかのいずれかである。共通である場合は、「類比」によって共通とされる*12。例として、等しいものどもから等しいものを引いたら、残りも等しい、というのが、各分野の共通原理とされる。このように、各学問に普遍的な共通原理が、「公理」である。
他方で、「要請[公準]」とは、疑いの余地のないものとして一般的に支持されているが、証明すべきものである。「仮説」とは、それを真と仮定するならば、帰結が確立されうるもののことで、「公準」とは区別される。アリストテレスによれば、「仮説」はしばしば同意に相対的だが、「公準」はそうした相対的な同意に基づかず、反対意見を持たないものである。「定義」というのもあるが、定義は、そこで定義されたものの存在については何も主張せず、代りに理解されることのみを要求する。この点で、定義は仮説や公理・公準と区別される。
個別科学においては、原理の存在に加え、類(genus)あるいは基体的質料(subject-matter)の存在がさらに想定される*13。たとえば、幾何学においては、「大きさ」、算術においては「単位(一)」の存在が、想定されねばならない。幾何学では、この類以外に、さらに、点と線の存在が仮定されねばならない。ほかのすべてのものとその存在は、想定されるものではなく、「証明」されるべきものとしてある。
重要なのは、このように「存在」の観点から、定義と公理が区別されることである。すなわち、公理ではその存在が仮定されねばならないが、定義では存在ではなく理解のみが要求される。そして、他のすべての存在は、原理となる基本的な要素の存在からすべて「証明」されるので、その存在を想定する必要はない、ということである。このことから、アリストテレス唯名論的観点が、『原論』に反映されていると見ることもできるように思われるが、詳しくは立ち入らない。

以上、公理や公準、仮説、そして定義に関するアリストテレスの説明をごく大雑把に見てきた。しかし、それらはすでにこのようにかなり混み入っており、必ずしもクリアではない。実際、アリストテレスは、公準を、仮説をカヴァーする意味でも使っているし、いずれは証明すべきものとしながら、証明せずにそれを使っていたりする。専門家による解釈もいろいろと分かれている。たとえば、ハイベルグは、アリストテレスにはユークリッド公準の意味での使用は見当たらないとし、アリストテレスでは公準は別の意味を持つとする。それに対して、ヒースは、ユークリッド公準に適合する例があるとする。

ふたたびヒースの議論を参考にしてみよう。ヒースは、ユークリッドが公理や公準として何を理解したかを知るには、プロクロスではなく、アリストテレスを参照するのが良いとする。ヒースによれば、自明だが証明不可能な、あらゆる学問にとって共通な原理として「公理」があり、他方で、幾何学の基体的質料(subject-matter)に結び付けられる限りで、それ以上還元不可能と考えられる最小の命題、すなわち“irreducible minimum”として「公準」がある*14アリストテレスはその『形而上学』で、論証の前提―帰結構造を指摘し、「すべての論証は公理を用いている」とする*15。また、アリストテレスは、「公理」の別名として、「共通なもの」(タ・コイナ)、あるいは「共通知見」(コイナイ・ドクサイ)を用いる。たとえば、「等しいものどもから等しいものを引いたら、残りも等しい」、という共通原理が、それに当たる(『形而上学』、1061, b 19-24;『分析論後書』、I, 11, 77, a 30)。「共通知見」は、そこからあらゆる論証が由来するものであり、例えば矛盾律がそうした共通知見とされる(『形而上学』、996 b 26 – 30;997 a 20-22)。こうした証拠から、ヒースは、ユークリッドの共通概念=公理の考えが、アリストテレスの共通知見=公理の考えにもっとも良く説明されているとし、またユークリッド公準に該当する説明もアリストテレスに求められうるとする。

ここで、われわれの目的である、ライプニッツにおける共通概念の位置づけの問題に戻ろう。
ユークリッドの「共通概念」は、単なる恣意的な前提というわけではないだろう。またそれは、ポアンカレ幾何学的規約主義のように、最終的には習慣や経験、あるいはわれわれが持っている身体にその決定を依存するところの、単なる規約でもないであろう。実際、アリストテレスは(2)で、その「真理」を要請している。アリストテレスの「真理」概念がいかなるものであるにせよ、それが実体的基礎に関わってくることは明らかである。ここにおいて、共通概念は数学的体系内におけるその位置づけから離れ、認識論的・存在論的身分の問題へと接近する。ライプニッツはというと、文脈から考えても、あくまで必然的真理ないし諸原理に関わるものとして共通感覚を描いており、その共通感覚に由来するものとして共通概念を考えている。この点で、ライプニッツもまた、アリストテレスユークリッドの伝統の範疇にあると言わざるをえない。ただし、ライプニッツユークリッド『原論』の共通概念を生得的原理として認めているのではない。ライプニッツユークリッドの諸公理のいくつかが依然として証明されうるし、証明されるべきとしていたからである(公理の論証というモチーフ)*16ユークリッド『原論』の枠組みから離れることはなかったとはいえ、平行線公準に対して疑問を呈し、その数学的体系の不備を指摘している。さらに言えば、同じく先の(2)で見たように、アリストテレスは『形而上学』で公理が論証不可能としていたが、ライプニッツの公理の論証のテーゼは、ユークリッドの公理がさらに分析可能だという単純な指摘にとどまらない。それは、『原論』の背後にあるアリストテレス形而上学を巻き込んで、論証や論理の本性をめぐるより大きな哲学的問題として考察する必要があることを、指摘しておこう。

さて、ライプニッツにとって、「共通」ということでは、普遍的かつ一般的ということが関わっていて、その限りではアリストテレスが言うところの「共通」より強い意味合いを持つように思われる。Aの意味での共通感覚が、そうした普遍性や一般性を含意するものとして考えられているなら、むしろライプニッツはAの意味での共通感覚にあくまでも踏みとどまっていると言えるだろう。学問的で非専門的な共通の知としての常識という意味ではBとも関わると言えるかもしれないが、経験主義的なニュアンスからは遠い。Cに至っては明らかに異なり、一般的に受け容れられている意見あるいは真理ではない単なる通説という意味でのコモン・センスの意味合いはそこにはない。

まだ論じたりない部分が多々あるわけだが、ひとまずの結論を出そう。ライプニッツにおける共通感覚と共通概念のあいだの密接な結びつきを指摘するラランドの解釈は妥当なものである。ではそれらのあいだの結びつきは何によるのか。ライプニッツが共通感覚について述べていた最初の引用ですでに、あらゆる人間に共通な一般的普遍的概念を想起させる役割を共通感覚に持たせていたと見るべきである。すなわち、共通感覚と共通概念は、生得説を介して密接に結びついている*17。そして、この生得説の介在が、アリストテレス的「共通知見」と区別される論点である。すなわち、ライプニッツの共通概念の理解は、それが真理を要請する点で、アリストテレスユークリッドの公理概念の伝統につらなるものであるが、その一般性の基礎を求めるにあたり、ライプニッツは理性に依拠するのであって、その論証としてプラトンの想起説を応用する点で、アリストテレス的伝統から乖離するものである。

課題。共通感覚および共通概念の理解について、ライプニッツはあまり多くを語っていない。しかし、その考えはかなりアリストテレスの議論に負っているところもあるので、アリストテレスと比較対照することで、ある程度理解を補うことができるかもしれない。さらにスコラやデカルトの認識説などにも当たる必要もあるだろう。

※雑文申し訳ありません。後で加筆・修正していきます。モチベーションが続けば、続くでしょう。

追記。誤植訂正:(誤)NE. II, §5→(正)NE. II, ch. 5
あと、ヒースの解説をふまえて、少し加筆しました。

*1:アリストテレス,『魂について』,II, ch.6 ; III, ch. 1,中畑正志訳,京都大学学術出版会, 2001参照。またその補論とされるアリストテレス,『記憶と想起について』,450a-452aも参照。

*2:A. Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie, 16e éd., Quadrige/PUF, 1992. ラランドはライプニッツが大好きらしく、ライプニッツが脚注考察にたびたび登場するため、この辞典はライプニッツ研究者にとって重宝される。ただし、すでに古い見解もあり批判も多いため、たたき台として使うべきである。

*3:ラランドの引用には抜けがあったので、以下引用ではブランシュヴィック版および米山優訳を参照させていただく。

*4:NE, II, ch. 5 : « Ces idées qu'on dit venir de plus d'un sens, comme celle de l'espace, figure, mouvement, repos, sont plutôt du sens commun, c'est-à-dire de l'esprit même, car ce sont des idées de l'entendement pur, mais qui ont du rapport à l'extérieur, et que les sens font apercevoir ; aussi sont-elles capables de définitions et de démonstrations. », éd. Jacques Brunschwig, GF-Flammarion, 1990. ちなみにNEでライプニッツが共通感覚について直接的に述べているのは、このNE. II, ch. 5の部分だけであり、それ以上深く議論していない。それもあって、扱いの難しい概念となっている。

*5:追記。典拠としてはNE,I,ch.1。ライプニッツは公理の論証の際、一般的見解に依存しないことを述べている(ibid.,§1)。諸公理は一般的に受け容れられているが、だからといって一般的見解が真理であるとは限らない。こうして、一般的見解と共通概念を等値するロックに対し(ibid.,§2)、ライプニッツは「生得的原理の確実性を普遍的同意に基づかせることは私はしない」と主張する。

*6:ただし、ライプニッツは、プラトンの想起説が過去に魂が獲得した観念の想起としている点を批判し、生得的観念の普遍的永続性を説いている。

*7:『エウクレイデス全集』,第1巻,斉藤憲・三浦伸夫訳・解説,東京大学出版会, 2008, 全体解説§5.3.1および第1巻p.186f参照。ちなみにそこではHeathの英訳p. 50ff, p. 117; およびVitracの仏訳p.117の参照を指示されています。

*8:Ibid., p.186.

*9:Ibid. ; クラヴィウス版では、公理9である(Amsterdam, 1738)。また、「すべての直角は互いに等しい」など、ハイベルク版より3つほど公理が多いので、参照には注意が必要である。

*10:T. L. Heath [1908], The Thirteen Book of Euclid's Elements, Vol. I, Cambridge University Press, Ch IX, §3, p. 117-124.

*11:『分析論後書』I, 6, 74 b 5;I, 10, 76 a 31-77 a 4.

*12:この「類比」の基盤が、プラトン的なミメーシスのそれ、つまりイデアではありえないことになるはずだが、ここではこれ以上は突っ込まない。

*13:基体的質料(subject-matter)とは、ヒースの言い方であるが、つまり、その分野において、あたかも基体となる要素としてその存在が想定されるところの質料のことであろう。アリストテレスにおいては、本当の基体は実体だけであり、数学的存在は実際は実体から抽象される思惟的質料にすぎないので、このような言い方になったのであろう。

*14:Heath[1908], p. 124.

*15:997a5-8. 定義、公準や公理の分類についてはさらにアリストテレス『分析論後書』、I, 2; I, 10を参照せよ。

*16:Cf. NE, II, ch. 1, §15.

*17:『人間知性新論』での「態勢disposition」の議論を踏まえれば、共通感覚という「能力」と共通概念という「対象」の両者にお互いを結びつけるところの「態勢」があったと考えられる。さらに、例の自然の驚くべき「秩序」に関する形而上学ライプニッツの認識論を基礎付けていることが、両者の結びつきの背景としてあることを見てとるべきである。