labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

いろいろ溜まっている作業のお片付けの日。

いいかげん体が心配になってきたので、外に出る。街はcarnaval。紙吹雪、仮装、ダンス。素通りして、いつもの公園へ数ヶ月ぶりにジョギング。…これはダメだろう。桜はほとんどないどころか、まったくなかった。半袖で十分なほどに、すでに暖かい。夏の脱出計画の必要を感じる。

帰ってから作業。何をしたのかすっかり忘れた。

4/3の記事の追記。

やはりラブーアンは別巻を予定しているようだ。今日、序文をちゃんと読んだら、書いてあった。そこでは、デカルトからライプニッツまでの普遍数学の研究が扱われるとのこと(Rabouin, 2009, p. 24)。ウワーイなのかウワーンなのか。著者はフッサールについてもいくつか論文を書いているので、それも次巻に含まれるか、三巻目で扱われるのだろう。すでに序文で、デカルト、ファン・スホーテン、ライプニッツ、ヴォルフ、カント、ボルツァーノ、新カント派(カッシーラー)、クーチュラ、ラッセル、カヴァイエス、カルナップ、フッサールニーチェハイデガーなどの名前が挙がっていた。なんだかやりたい放題のような気もするが、読んでいて知らないことも多く、なかなかおもしろいので余計しゃくにさわる。哲学者たちによって、普遍数学がどのように認識されてきたのか、主にrationalismeとの関係で論じるのが、ラブーアンの目的のようである。
しかし、この人の書き方はまわりくどくて、読む気がなかなか起きない。扱っている対象がこれだけすごいのに、なんでこんなつまらないのか不思議なくらいだ。何かが欠けているんじゃないかと思うが、あるいはそれは自分なのか。

自分の研究に関連しそうな文献がネットに落ちていないか探していたら、いいものがあった。

van Schooten, F. Renati Des Cartes Principia Matheseos Universalis seu Introductio ad geometriae methodum, 4e 'edition, Francfort: F. Knoch, 1695.

などを含む、デカルトの『幾何学』1695年版。
GallicaからDLできます。wikip'ediaでファン・スホーテンvan Schootenを引けば、より早くアクセスできます。ド・ロピタルのもしてくんないかなあ。←同じく、Gallicaにありました。

marquis De L'Hôpital [1696], L'Analyse des Infiniment Petits pour l'Intelligence des Lignes Courbes

ついでに、

Varignon, Pierre [1725], Éclaircissements sur l'analyse des infiniment petits et sur le calcul exponentiel des Bernouilli

も入手。

ラブーアンも述べていたことですが、ライプニッツは「普遍数学」をデカルトの規則4の箇所よりも、ファン・スホーテンを通じて理解していた節があります。補足すれば、デカルトとファン・スホーテンは、記号的解析の起源として、すでに『結合法論』(1666)で言及されます(G IV, 35)。しかし、このとき、ライプニッツはまだ『規則論』は読んでいませんでした。したがって、デカルト本人の「普遍数学」概念は、まだ知らなかったのです。

ライプニッツはパリ滞在期の最後の年、1676年に、チルンハウスとともに、クレルスリエからデカルトの遺稿『規則論』を閲覧していました。しかし、ライプニッツの「デカルト『規則論』の欄外注」には、たしかに普遍数学への言及がなかったように思います(A VI-4, 1031-36)。ちなみにこの「欄外注」は、調べたところ、ただの抜粋のようなものでした。残念。

17-8世紀当時の言説空間で、「普遍数学」として理解されたのは、デカルトライプニッツのそれではなく、ファン・スホーテンやそれ以降の人たちが理解したそれでした。デカルトの普遍数学はライプニッツが混同したように「幾何学的計算」とみなされ、また、ライプニッツの普遍数学はしばしば「普遍的記号法」と混同されていたようです(Rabouin, 2009, p. 15f)。

歴史的にはいろいろ突っ込んだ議論ができそうですが、残念ながらわたしにはそっち方面の才能と関心がありません。うーーん……これもダメだろう。