labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「分析形而上学」入門

現代思想43のキーワード』から、鈴木生郎さんの「分析形而上学」の項を読んだ。分析形而上学の方法論に論点をしぼった良記事でした。

 

現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集◎現代思想43のキーワード (現代思想5月臨時増刊号)

現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集◎現代思想43のキーワード (現代思想5月臨時増刊号)

 

 

以下、いくつか抜粋して紹介し、最後に簡単なコメントを付します(主にTwitterでつぶやいたもの)。

分析哲学形而上学の排斥という側面をもったのは、論理実証主義と日常言語学派の哲学が影響力を持った一時期(1930年代ー60年代)にすぎない。」

「現在分析哲学において形而上学を研究する哲学者は、自分たちのことを「分析形而上学者」と呼ぶことはほぼなく、単に「形而上学者」と称する。 このことが意味するのは、多くの形而上学者は、自信の探求を分析哲学以前(以外)の形而上学的探求と区別せず、 形而上学という単一の学問の系譜に属するものとみなしているということである」

形而上学の方法論に関して近年特に問題となっているのは、しばしば現代の形而上学者が、問題解決にあたって「概念分析」という手法を用いる点や、 形而上学的主張を正当化するために「直観」ないし「常識」に訴える点である」

「一部の形而上学者は・・・概念分析という手法や直観および常識の援用に懐疑的である。 こうした形而上学者は、むしろ形而上学を科学理論と連続的なものとみなし、 よりよい科学理論を選ぶための方法を形而上学に援用する。 たとえば、単純さや節約性、あるいは説明力の高さによってよりよい形而上学的立場を選ぶのである」

「他方で、自由や日常的事物のあり方のように、われわれの概念理解がその本性からかけ離れているとは考えにくい主題もまた存在する」

「直観や常識については、その信頼性が確固たる科学的知見に比べて劣ることが認められる一方で、 特別に疑う根拠がない場合にその信頼性を疑うこともまた極端である」

「基本的に形而上学者に求められるのは、この世界に関するひどく答えにくい問題に、利用できる資源を慎重に吟味しながら答える以上のことではない」

 

 コメント

アリストテレス的現代形而上学』なども翻訳され、日本でも分析形而上学が流行している印象がありますが、この原因は何なのでしょうか。

「概念分析」という手法や、「直観」と「常識」に訴える哲学方法論に対するオルタナティブとして、現代では「実験哲学」の興隆があげられます。また、従来の「概念分析」という手法を自然主義的観点から反省し、概念分析を自然化した「概念工学」conceptual engineeringという手法が近年クローズアップされています。 形而上学は、こうした現代的な哲学的方法論とどのような関係に立つのでしょうか。(なお、「実験哲学」や「概念工学」は『現代思想43のキーワード』に入っておらず、比較できずやや残念。何で入ってないの。)

形而上学内部でも、従来の手法に懐疑的になっており、(ネオ)プラグマティズム的あるいは自然主義的な規準や、自然科学の知見を形而上学に取り入れる柔軟性が、現代の形而上学にはあるようです。

 概念分析だけではなく、問題に応じて自然科学の知見やマルチな方法論を取り入れる可能性を認めるとすると、 もはや分析哲学の中での形而上学の一派というより、広く「形而上学者」と名乗るのが妥当だろうと、わたしも思いました。しかし、分析哲学も他分野と協同し、ボーダーレスになっている印象ですが、それでも「分析」形而上学と言われる、その核がいったいどこにあるのか、私にはよくわかりませんでした。

マルチな方法論を取り入れる際、問題となるのは「説明のレベル」をどう擦り合せるか、ということになるように思います。複数の説明レベルを、統一したり還元することなく、そのまま多元論的な仕方で許す、というのはしかし、普遍的な説明を探求する形而上学として、アリなんでしょうか。ミクロな現象とマクロな現象を説明するのでは、物理学でも理論が異なるわけですが、もし多様な事柄を普遍的に説明しようとする場合、それ以上に複雑なレベルを統御しなくてはならなくなります。これをどのように包括的説明へともたらしうるのかが、形而上学の方法論の課題として(あるいは哲学一般の方法論的課題として)あるように感じました。そこらへんの疑問を解消するには、哲学方法論ないしメタ哲学の専門書に当たるべきかもしれません。

 

分析形而上学に関しては、その興隆の歴史を描いた邦語論文がいくつか出ているようです。たとえば、

野家啓一形而上学の排除から復権まで−−哲学と数学 ・論理学の 60年」『科学基礎論研究』2016, 31-36。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron/43/1-2/43_KJ00010256964/_pdf/-char/ja

論理実証主義の興亡を軸に、形而上学の哲学の排除から分析形而上学の興隆までをコンパクトに描いています。

 

伊佐敷隆弘「なぜ無ではなく何かが存在するのか─分析哲学における形而上学の盛衰─」

http://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/77/77-14.pdf

こちらは、「存在の謎」をめぐる議論を中心に、論理実証主義による形而上学批判から、分析形而上学の興隆による形而上学復権、そしてメタ形而上学の登場までをコンパクトに描いています。クリプキの固定指示詞の考え方がもつインパクトと意義がよく説明されている印象です。野家論文ではコンパクトすぎた感があったのを、もう少し埋めてくれます。

 

しかし、いずれも、思想の大きな流れを掴みたい、という意図はよくわかるのですが、これではあまりにコンパクトすぎますし、歴史的な経緯がこれで説明できているとは到底思えない内容です。

歴史的厳密性と哲学的意義をどのように調和させるのか、という問題はありますが、歴史を扱う、歴史に踏み込む、ということの方法論が、あまりに意識されていないように思うのです。

近年、「分析哲学史」という分野も興隆しており、そこでは影響関係など歴史的詳細に立ち入ったかなり綿密な議論が展開されていることを踏まえると、分析形而上学ないし分析哲学もまた、そうした歴史性とどう向き合うのか、真剣に考えるときが来ているように思いました。