ゲーデルの宇宙関連
6時起床。昨夜あわてて読んだ、『現代思想』(2007.2)ゲーデル特集号所収の内井先生の「ゲーデルの宇宙」を再読。大変勉強させていただきました。物理学のテクニカルなバックグラウンドのない自分にとって、こうした哲学向きで明快な研究はとても助かります。回転の(天下りな)導入によって、光円錐の向きにねじれが生じることで、光の伝達に変異が起こり、時間の前後の順序が崩れる、ということなのかな、というのが、私が理解し得たゲーデル宇宙のおぼろげなイメージ。とすれば、ゲーデルのモデルでは、時間は単に量的な指標にすぎず、質的な関係ではなくなることになると思います。
ただ、同論稿の終わりの方に、公表した論文では哲学的部分を削除しているのだから、下書きにすぎない遺稿に引きずられた解釈をすべきではない、と書いてあって、まさに遺稿研究のお仕事に行く直前の私としては、少しションボリしてしまいました。公表論文が第一であり、ゲーデルが公表しなかった意志を尊重すべき、という指摘はごもっともです。ただ、ゲーデルは厳密であると自ら確信を持つことのできたものしか公表しなかったので、あいまいな部分を免れない哲学について論じた箇所で確信を持てない部分は、その観点から削られたとも考えられます。しかしハッとさせられたのは、当たり前のこととはいえ、遺稿を用いる際の注意として、解釈をするのに遺稿に引きずられないようにする、ということです。遺稿は深い省察を示している部分がほとんどですが、ゲーデルが完全に納得するところまで十分な吟味を経たものではおそらくなく、transcriptionともなると、編者のバイアスがかかっていますので、さらに思考の純度が落ちることになります。その点を重々断った上で、公表されたモノグラフの主張を損なわないよう「慎重に」遺稿を用いるならば、遺稿を利用することでさらに有意義な研究となりうると思います。そして、今後のゲーデル研究の発展として、一部の哲学や科学へのインパクトだけでなく、より広義での哲学、とりわけいまだ十分論じられていない哲学史へのインパクトについて、もっと深く考察されねばならないだろうと思いました。ゲーデル自身も、哲学や哲学史の研究に大きな意義を認めており、多くの時間をその研究に当てたにも関わらず、その大部分が遺稿としてしか残されていません。実際にそうした哲学的考察から新たな宇宙像の発見という科学的成果を得た稀有な例としても、遺稿ノートが持つ哲学的意義は公表されていないからと言って見過ごせないものがあります。
パレ・ユアグローの『時間のない宇宙』(林一訳、白楊社、2006)も読みたかったのですが、(別の意味で)時間がないのは私の方だったようで、ライプニッツの関連のところだけ、索引で当たりました。期待したのですが、ゲーデルとライプニッツの関係が強調されているわりには、時間論に関してはほとんど何も比較がなされていません。ライプニッツに関してはごくごく通俗的な理解しかなされていませんでした。あと、原文が手元にないのでなんとも言えませんが、「ライプニッツの十分条件の原理」(p.193)と訳してあるところは、普通に考えて「ライプニッツの充足理由律」ではないでしょうか?