labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

音楽的調和についての雑考

最近、『ペルソナ』というゲームのリメイクが出たのだが、リアレンジ*1された楽曲が元のイメージ*2に合わないと、旧作ファンから痛烈に批判されているようだ。目黒将司氏の音楽は大好きなのだが、むかし旧版で遊んだ世代としては、そういう反応が出たことはとても残念な事態である。原曲ですでにイメージが確立されており、そのイメージに挑戦するのは、きっと並大抵のことではなかったはずである*3。リメイクする際には、保守派から多かれ少なかれ批判が出るものだ。しかし、今回は原作のコンセプトを継承せずイメージを壊してしまい、古参ファンの期待を裏切るものとなった結果、過剰な反応を招いたようだ。

映画や演劇、アニメ、ゲームなど、音楽を演出上の構成要素に持つマルチな表現活動において、しばしばこのような仕方で、「音楽がイメージに合わない」という批判がなされることがあるが、それは哲学的にはいったいどのようなことなのだろう。音楽は、作曲者の自由で純粋な想像力の所産かもしれないし、自然から何らかの仕方で抽象されたものかもしれない。あるいは、すでにあるイメージが先行していて、こういうイメージで作って欲しい、と監督から依頼される場合も多いだろう。しかし、音楽そのものは、映像や感情表現の描写との対応の問題とは独立に、それ単独でも成立するものである。したがって、音楽はそれ単独でも評価されうる。ただし、ここで「単独」というのは、あくまでも音楽とは別の分野に属す要素を含まないという意味であって、音楽そのものに対する解釈の問題は依然として残る。作曲者は楽譜を通じてその曲に関するイメージを付与するが、楽譜そのものは記号の空間的配列にすぎない。作曲者と楽譜のあいだにある表現関係が、他者にもそのまま伝達されるわけではない。その曲を演奏という時間的系列に置換するのには、(再)解釈を要する*4。それは、作曲者自身も例外ではないだろう。そして、その音楽を映像や感情表現に対して割り当てるのは、音楽監督によってなされる、さらなる別の一つの解釈である。それをさらに観客が個々に解釈している。このように、解釈はつねに再解釈を伴う。そこには、多層的な解釈のひだがある。したがって、「音楽がイメージに合わない」という批判は、あくまで解釈についての批判であって、作られた音楽そのものについての批判ではない*5

「音楽がイメージに合わない」という批判は、他方で、何らかの「正しいイメージ」が存在することを前提している。それが唯一であるかどうかは、場合によるだろう。複数の楽曲が、同一のシーンに適合することはよくあることだからだ。適合の仕方によっては、まったく新たなイメージを創造する場合もある。ニコニコ動画に見られるようなMAD動画が、そのいい具体例である*6。一般的には、こうした適合の可能性は複数存在すると言えるだろう。「正しいイメージ」そのものの観念がまずもってあいまいである。そこに意見のおおまかな一致はあるかもしれないが、解釈関係に関する何らかの想定なしには、解釈する各人に相対的なものでしかなく、多元的である。それに、音楽とイメージの関係も、本来相対的なものである。つまり、いずれかにプライオリティを置かなければ、「音楽がイメージに合わない」は、「イメージが音楽に合わない」と言ってもよい。そこで哲学的に問われるのは、音楽とイメージの「対応」ないし「適合」という事態の説明であろう。楽譜の幾何学的配列、演奏の時間的系列、映像の時空的系列、そしてそれらを複合的に捉えるわれわれの精神の順序とのあいだに、いかなる対応があるのだろうか。この問題に独自の解答を与えた哲学者としてまず思い浮かぶのは、ネルソン・グッドマンだ*7ライプニッツをもっとも良く理解していたのはカッシーラーではないか、と思うのだが、そのカッシーラーの記号(シンボル)についての哲学を、批判的に考察しているグッドマンは、ここ最近ずっと気になっている存在である。想像とともに、それと対になる精神のはたらきである、抽象について考えていたことも、その関心の背景にある。

今はまだその議論を消化しきれていないので、不用意な発言は差し控えておくが、今後の研究のために、仮説を立てておこう。グッドマンの主張は、普遍的記号法の考えのアンチ・テーゼを形成するものである。なぜなら、普遍的に適用可能であるような、唯一の正しい記号体系など、彼に言わせればありえないことになるだろうからである。彼の議論は「ヴァージョン」の概念に基づく多元的なものであり、その多元論は、相対的かつデフレ的な唯名論を特徴とする*8

ところで、音楽と(感情表現や自然描写、世界観を含む)イメージの対応の問題は、数学と自然科学の関係および自然科学と自然現象の関係を考える上でも、きわめて重要な問題である*9。数理科学と自然現象のあいだにある秩序的な対応があることを、われわれは経験を通じて学ぶ。音楽もまた、われわれの感情や自然現象とのあいだに、ある説明しがたい対応を持つことをわれわれは知っている。では、なぜそのような対応が現にあるのだろうか。われわれは、この理不尽なまでの対応を、いったいどのように説明したらよいのか。数学や物理理論もまた、自然現象との対応の問題とは独立に、それ単独で成立する。とすれば、「音楽がイメージに合わない」という先の批判は、数学や自然科学が自然現象の説明に適合しないという批判と同じたぐいのものであろうか。音楽と自然とのあいだを考えることは、数学と自然とのあいだを考えることと、類比的である。なぜなら、それは、抽象と具体とのあいだを考えることだからである。ただし、これは、理解しているのに説明できない、あるいは示しうるのに語りえないものの領域に属する問題のようにも思われる。

このような音楽とその多層的な解釈に関する哲学的問題は、哲学の伝統的な問題であった。それはより一般的には、「表現」の問題として捉えることができる。それは、周知のように現代の哲学思想においても頻繁に扱われる主題であり、古くてなお新しい問題だ。この問題は、伝統的には、数学思想ないし数理哲学上の問題として扱われてきた。なぜなら、音楽が数学的であることが、古代より知られていたからである*10ピュタゴラス学派やケプラーをはじめとして、世界の音楽的調和の思想があった*11。それは、数理哲学と不可分の問題である。しかし、自分が無知なだけだと思うが、それは数理哲学上の主題として、現代ではあまり本格的に扱われていないのではないだろうか*12。自分の専門とする近代哲学ではいったいどのように受け取られたのだろうか。また、現代ではどのように考えられているのだろうか。この問題について、関心はあったにもかかわらずこれまでまったく考えたことがなかったが、いずれ真剣に取扱ってみたい気がする*13

追記。5/5、午後、最終更新。

*1:すでにアレンジは、『ペルソナ2 罪・罰』でされているので、今回のは「リ」アレンジ。

*2:「イメージ」の厳密な定義はまだ与えられそうにないので、ここでは「イメージ」として、その人がある対象(ここでは『ペルソナ』というゲーム)に対して、心の中に思い浮かべているあり方(ここでは雰囲気・世界観)として、あいまいに考えたい。

*3:atlusnetのクリエイターワークス、「ディレクター目黒の開発日記」参照。

*4:ただし、作曲から演奏にいたるまでコンピュータで行う場合はこの限りではなく、作曲者本人による表現ないし解釈が保たれる。その意味では、作曲者本人の曲のイメージが演奏に再現されている程度は高いと言えよう。また、演奏者が解釈どおりに演奏できるとは限らない。それはしばしば解釈を「超越」する。演奏者は、ミューズが降りてきたかのように、自分でも予想できなかったすばらしい演奏ができたと思うときがある。それは哲学的にどのように分析されうるのだろうか。

*5:当たり前だ。

*6:そのような適合可能性を秘めた動画や音楽・音声の素材を、MAD素材と言う。最近のアニメは、ニーズに応え、MAD素材となることも意図して作られているような気がする。

*7:ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、菅野盾樹訳、ちくま学芸文庫、2008年。

*8:すなわち、「正しい」ヴァージョンは複数存在してよいが、必要以上に多くあるべきではない。この点に関して言えば、ライプニッツも複数の正しい理論が共存しうることを認め、人間の観点では、唯名論的立場に立つ。また、可能世界は概念として無数に存在するが、実在する現実世界は唯一である。ライプニッツの哲学のモットーは「多にして一」、「一にして多」である。また、ライプニッツは、それによって言葉(parole)ではなく思想(pensée)を直接表現できる理性的言語を考えていた側面もある(Leibniz à Gallois [1678.12.19], G VII, 21-23.)。フレーゲの「概念記法」へと継承されたこの理性的言語の計画もまた普遍的記号法の一貫としてあるとすれば、ライプニッツの普遍的記号法は、解釈を含むモデル論的なものというより、ヴィトゲンシュタインが『論考』で描いたような一元論的かつ非モデル論的な記号体系に近いものとなろう。実際、ライプニッツは思想を固定しわれわれの想像力が助けとなるような「その記号法は、われわれの思想の諸関係を完全に伝え知らしめるある表記法ないし言語に存する」(G VII, 22.)と述べており、理性的言語と普遍的記号法の不可分な関係が主張されている。ただし、普遍的記号法と彼の多元論との関係は、まだまだ考察しなければならないことが多く、上の仮説はすでにあやしいことを断っておく。あやしいと思うのは、複数の正しい理論が現在存在することを認めつつ、普遍的記号法によって書かれた統一的理論に向けて、将来的には諸理論の還元を進めていこうとするのがライプニッツの立場だとすれば、それはグッドマンの立場にほとんど抵触しないように思われるからである。

*9:ただし、自然現象が何らかの方法=記号的体系に依存してしかそれとして現れえないとするならば、グッドマン的には、自然現象もすでに解釈を伴ったものでしかありえないことになるだろう。われわれの世界の理解が方法に依存している、というのが近代初頭になされた大いなる洞察であった。そして方法とは記号体系であり、したがって記号法に依存している、と看破したのが、ライプニッツである。だから、彼は普遍的記号法を探究したのである。

*10:むろん、音楽が数学的でない部分を考察することも、音楽と自然の独自な関係を考える上で重要であろう。

*11:前者については、たとえばプラトン『国家』, VII, 530 D - 531 C参照。後者については、工作舎よりつい最近翻訳出版された、『宇宙の調和』(岸本良彦翻訳)を参照せよ(筆者未見)。

*12:そういえば、専門書ではないが、『ゲーデルエッシャー、バッハ』という啓蒙書があった。なぜゲーデルとバッハが結びつくのかはわからなかったが、ライプニッツゲーデルの結びつき、そしてライプニッツとバッハの結びつきを考えることで、つながる気がしないでもない。バッハの音楽と絵画ないし映像を結びつける試みは、ハンス・リヒターをはじめとして、もはや何らめずらしいものではない。最近では、バッハを主題にした映像作家として、石田尚志氏に注目している。では、ライプニッツの哲学と関わりそうな画家はだれだろうか。不思議と、学部以来敬遠してきたドゥルーズをまた読み直したくなってきた。

*13:その前に、果たしてこの問いそのものが有意義なものとなりうるかについて、考察せねばなるまい。