labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

悩める私が悩むことについて悩んでみた。

前日の読書で、疲労気味。図書館で強制的に作業。ある一線を越えれば、なんとかなるもんだ。やることの順序がわからなくなって、何も進んでいない。よって、週末は予定を変更し、研究計画の見直しと資料整理の予定。そのときの気分で勉強するのは、楽だがやはり甘い。

今日も一日、その大半を悩んで過ごした。あるいは無駄な時間、と取られるかもしれない。大部分はそうだろう。「悩むこと」もまた、「思惟すること」つまり「考えること」一般に含まれるとはいえ、やはりそこには否定的局面が常に伴うからだ。考えが「迷うこと」も同様だろう。それらは共に、一方では思惟のある様態でありながら、他方では非生産的で無価値なことを指している。では、純粋に肯定的で生産的な思惟の在り方とは、はたして何だろう。それはどういう概念によって、また、どういう名前によって表されるのだろう。

簡単には、「良く考える」という答えがある。だが、はたしてこれは、いかなる思考の在り方を指しているのだろう。理性的思惟にそのすべてを負担させるのは、あまりにも安易な考えだ。純粋思惟は、おそらく何も生産しはしないだろうし。逝去された中川先生が、しばしば、「良くあること」とは何かを問題にされていたことを思い出す。結局、それが何なのかはわからなかったし、今もわからない。学部のときにたまたま受けた講義において、「概念」について問題にされ、それは今でも、自分の中心的な哲学的問題となっているが、それについても、はたして自分は「良く」考えてきたのだろうか。否である。

このように、「悩むこと」の多くは、過去の自分の在り方について反省し、これからどうするかについてである。たとえば今は、このまま中途半端な記事をさらしておいて、はたして良いものだろうか、こんなくだらないこと、早々にやめてしまえ、それに、やるならもちっと真面目にやるべきではないか、と。実際、結構、悩んでいる。未だ誰からもお叱りを受けていないし、「悪いこと」ではないか、少なくともその自覚が足りないので、まだ続けてはいるけど。たしかに、多くの記事が、「良いこと」に分類されるとも思えない。身近にストレスを吐き出す相手もいないので、この日記という形態はわりと役だっているとは思う。むろん、ただ思考をダダ漏れにしているのではなく、一応―たとえ酔っているときでも―多少は表現を練るようにしている。誰にも見せない、自分のためだけの日記であれば、こういうふうにはきっと書かなかっただろう。でも、それで「良い」かどうかを問われると、自信はないどころか、「こんなくだらないことやっちゃって」と、自己内他者に、いつか叱られそうである。たとえば、厳格な指導教官であられた、K先生あたりに、今日あたり、夢でお叱りを受けるんではなかろうか。そんな声が聞こえたら、素直にやめようと思います。

もっと志しを高く持たないといけない、と思いつつも、ついつい、おちゃらけてしまう。たぶん、そのような氷のような厳格な在り方に、自分の精神は耐えられるほど強くはないのだ。今までの人生でいちばん気合いを入れて勉強したのは、おそらく修士一年のとき。むろん、今の自分の方が優れているとは思うが、志しに関して言えば、地に落ちた感がある。若かっただけではすまされない。その頃味わったとある挫折も、おそらく影響しているのだろう。昔のことだが、その初心を思い出す必要がある。あるいは、新しく創造する必要がある。その方が、早そうだ。

自分のことより、他人にプラスになることをやりたいし、やらねばならないのだが、未だ、それに徹する余裕なし。願わくば、自分のために好きで、あるいは不可避にやってきたことが、他人にも、多少とも役に立つことを。ひょっとしたら、今日は、「良く」悩んだのかもしれない。