labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

己鳥の夢

ここ最近を振り返ってみると、どうも数学ばかりしていた気がする。
といっても、自分でやっているのは、初歩的なことばかり。
いまだ勉強会で教わった、Γ関数の興奮の余韻が冷めません。
最近はフィルターとかやっていました。まだその概念がよくつかめていない。章末問題で詰まっている。フィルターの概念は、アンリ・カルタンによることを最近知ったから、いよいよわからなければ、いずれ原論文をひも解く機会もあるかもしれない。どうも数学をやりだすと、そのことしか考えられなくなって、本業がおろそかになりがち。哲学も語学もやらないわけにはいかず、日々どうしたものかと思い詰めてみたり、まだ大丈夫と楽観的になったり、アップダウンの運動を繰り返し。

最近は、そんな迷う暇もなかったり。今は書類の準備に追われている。忙しい方が、精神にとっては健康なのかもしれない。
再来週にはセミナー発表をするんですが、こちらはまだ準備中。あと、欲張ってか、そろそろ提出しなくてはならない仏語論文の改稿を企てています。すでに日本語版は紀要で提出したもので、テーマは同じですが、こちらは内容をもっとしぼって、より哲学的かつ数学的なものにする予定。ネタは、増えすぎてしまって、どうしよう、という感じ。はっきりとした締切がなかったので、ずるずるやってしまったが、もう書いてしまいたい。
それから、3月か4月にこちらの博士課程の合同発表会みたいなところで発表することになった。自分のフランス語のレベルを考えて、なるべくわかりやすい発表にしたい。テーマはまだ未定ですが、博論で扱った、ライプニッツの「位置解析」の検討から導き出される数理哲学的問題について、さらに深いところまで考察してみたいと思います。ライプニッツの「位置解析」の構想は、とりわけデカルトの『幾何学』の理解が前提されるので、比較検討をきれいに提示したいところです。発表では、数学的部分はごっそり削らねばならないと思いますが、自分が詰めたいのは、もっぱら細かいところの理解。自分には木も見えるけど、聴く者には森だけを見せるようにする、というところでしょうか。数学に関しては、今のところは現代の方にもっぱら関心があって、研究のあり方をよくよく考えなくてはいけない。


そういえば、話はすっかり変わりますが、なんか変な夢を見ました。
気分転換に、そのことでも書いてみます。


電車に乗っていた。車内の感じを思い出すと、たぶん阪急だったと思う。車内はえらく閑散としているし、周りの明るさから察するに、時刻は昼ごろだろうか。普通電車だったのだろうか、横に長い椅子のタイプだった。ドアを入ってすぐ左側の座席に、右端一人分のスペースを開けて座る。空いているのだから、どの位置に座ろうと自由である。人に迷惑にならない程度の、ほんの少しイレギュラーなことをやってみる。自然と社会へのささやかな反抗、といったところか。自分には、どうもそういう傾向があるようだ。
変化が起きたのはその後である。どこからか、いきなり一羽の鳥が車内に舞い込んできた。これはどうしたことかとしばらくあっけにとられていたが、物理的に考えて、その可能性がないわけでもない。ドアから入ってきたのか、窓から入ってきたのか、はたまた貫通したのか、その経由はとんとわからないけれども。
取り立ててすることもないので、とりあえずは状況にしたがって、その鳥でも観察してみる。色はないし、いたって普通の鳥だ。もともと鳥をそれほどじっくり観察したこともないわけだか、実に適当な形をしている。ただ、一つ大きな特徴がある。なんとハチドリのように、空中静止飛行ができる。ホバリングは、一度だけ見たことがあるが、こんな感じだったろうか。もっとこう、おしりが下がっていたような気がするが。まあよい。その鳥は、ハチドリよりかは体長が数倍大きいので、ハチドリではないだろう。それにしても、飛び方はえらくなめらかで優雅だ。腕を延ばすと、音もなく、その上にふわりととまった。「ふわり」というのは、音を連想してしまうので、あまり良い形容ではなかったもしれない。「さらっ」と、うーんこれも良くない。こういうケースでは、思わず音を補って考えてしまいがちなのである。静けさもまた、音によってしか理解できない。とにかく、そのような「そっ」とした感じの極限にある音無き音、あるいは無限小な音で、腕にとまったということである。
それにしても、いったい何でこんなところに鳥が迷いこんで来たのだろう。ここに居てはきっといいことなんて何もない。そのうち、踏みつぶされるか押しつぶされてしまうのがオチである。今回は、不幸中の幸いと言うべきである。ちょうど人もまばらだし、ここには天敵もたぶんいないのだから(ふふふ、人間を除けばね!)。あまつさえ助けてあげようという人もいる。不幸が訪れる前に、できれば外に出してあげたいものだが、すでに列車は動きはじめてしまっている。その鳥は、今は列車の中ほどの通路をひょこひょこ歩いている。先ほどの優雅さやなめらかさはどこへやら、いかにもみすぼらしい様子で、カクカクと歩いている。鳥はやっぱり飛んでこそなんぼだろう、なおさら早く外に出してやらねばと思う。だから、あんまり本意ではないけれど、捕まえて次の駅で一緒に降りることにした。その鳥が何で電車に乗ってきたのか、目的地はどこなのか、おかまいなしである。ひょっとしたら、鳥だって、電車を移動手段にしているかもしれない。しかし、鳥の気を人が知るはずもないし、リチャード・バックという稀有な例外を除いて、鳥の気持ちになってみようなんて誰が思うだろうか。そもそも、自分がなぜ電車に乗ったのか、目的地はどこなのかもわからなくなっていた。まあ、次で降りよう。今は緊急事態だ。
とにかく、えらく人なつっこい鳥で、捕獲にはあっさりと成功した。ふだん見かけない鳥だ。もともとどこかで飼われていた鳥か、あるいは、人に餌づけされている鳥かもしれない。
ところが、いざ捕まえてみると、その鳥の体温がえらく冷たいことに気付く。外観だけでは、分からなかったことだ。どうも、体調を崩している模様。暖めてやってもよいが、あいにく生き物の中では、鳥はそんなに好きな部類ではない。できれば、さっさと用を済ませて、手を洗いたいところだ。そもそも、鳥の平熱がどのあたりの温度に分布しているのかも知らない。さっきは、つい人間の体温をアナロジーで適用してしまったが、これが鳥の常温なのかもしれないし。人間だって、東洋人と西洋人とでは平熱の差がある。いわんや鳥をや。
そうこう考えているうちに、その鳥は、いきなりボトボトと何かを垂らし始めた。その何かが何かはよく分からない。今のところ、匂いもいっさいしない。むろん、あえてそれを嗅いでみようとも思わない。考えてみたくないことはあまり考えない、そういう世代である。
そんなことより、問題は、その何かを排出をするたびに、鳥がみるみるげっそりとしていくことだ。そのせいで鳥はいっそう体調を悪くしたようで、ますます冷たくなっていく。
ああ、これはもうすぐ死ぬな、と思った。
次の駅に着くや否や、急いでその鳥を両手で前の方に突き出した形で抱えて(そうしないと汚れるから)、どこか放すのに適当なところはないか探した。あいにく、ホームが地下にあるタイプの駅で、降りたすぐそばで離すわけにもいかない。それに、ただ放したものかどうか、動物病院に連れていってあげた方がいいのか、はたして見ず知らずの生き物、しかも鳥に対して、そこまでする義理があるのだろうか、そもそも、そんな同情は鳥にとってはありがた迷惑なのではないか。。。
迷ったあげく、うーん、どうとでもなれ、鳥、お前自身が決めろ、と駅入口付近に出たところで、その鳥をポイと放った。
そこで目が覚めた。


むろん、夢を正確に思いだせるはずもなく、全体的に脚色されています。
ただ、筋はこんな感じの夢でした。
何なんでしょうね。オチもないし。せめて、最後にポイ捨て禁止の看板でもあれば、落ち着くのですが。
夢の意味とか暗示が何なのかはまったくわからないけど、おそらくその鳥はほかならぬ自分だったのだと思う。
というのも、先週金曜日に、マルセイユポアンカレセミナーがあった帰り、バスを長い時間待たされて、体がすっかり冷えてしまって、お腹をひどく壊してしまったから。
翌日は熱も出て寝込んでしまった。少なくとも2台目では乗れたはずなのだが、定期券をもっている人は後ろのドアから入れるし、前からも途中割り込まれまくって3台目にしてやっと乗れたのであった。
夢の中で、舞台が混んでいるバスではなく、ガラ空きの電車だったのは、もうバスはいやだせめて電車にしてという願望の現れだったのかもしれない。
つまるところ、見た夢に関して、たいした含蓄もオブセッションも思い当たらないのです。
その鳥がその後どうなったかはもちろん描けません。


それでは、そろそろ書類に集中します。