labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツと「想像力の迷宮」メモ。[1]

現在,Logica imaginationis(想像力の論理学)の系譜を調べている.現時点での調査では,それは,ライプニッツにオリジナルの概念である.もっとも,「心の論理la logique de coeur」(パスカル)や「感覚の論理logic of sensation」(ベーコン)という言い方がすでにあったようなので,「想像力の論理学」という形ですでに言われていたとしても,なんら不思議ではない.ライプニッツ自身が,論理と想像力の組み合わせを他から拝借してきたという言及はない.Jungiusあたりにありそうな気もするが,まだ手元に資料がなく,調べられないでいる.いずれにしても,たとえその語がライプニッツ以前に現れたとしても,実質的な内容を持つ,近代的な「論理学」としてそれを構想したのは,ライプニッツが最初であろう.そして,そこが決定的に大事なのである.重要なのは名目ではなく,内容であり概念なのであるから.

問題の,ライプニッツ以降の系譜については,三木清『構想力の論理』を読んで,ある程度目星はついた.
三木自身は「構想力の論理」という語が,バウムガルテンに由来するとしている(三木全集8,13頁).

バウムガルテンのMetaphysica, Sectio IIII, Phantasiaに,想像力の規定が書いてある.

私は想像する能力すなわち想像力を持つ.私が想像するものは事物の表象であり,その事物はかつて現前していたもので,感覚に対しては存在していたが,想像する際には,不在である.
Habeo facultatem imaginandi seu PHANTASIAM. Quumque imaginationes meae sint perceptiones rerum, quae olim praesentes fuerunt, sunt sensorum, dum imaginor, absentium. (P.III, C.I. SIIII §558)
*1

三木が『構想力の論理』において,初めてライプニッツに言及しているのは,タルドの『模倣論』において,ライプニッツモナドジーが基礎にあることについて言及している箇所である.

タルドの模倣論とライプニツのモナドジーとを比較するとき想ひ起されるのは微小表象petites perceptionsの思想である.微小表象はライプニッツの調和説の重要な基礎となってをり,彼はまたそれによって美の問題を考へた.そしてバウムガルテンのいわゆる構想力の論理もそこに出発点を有するとすれば,模倣の根底に構想力の論理を考えることも不可能ではないであらう.(三木全集8,126頁)

このように,三木は,その系譜をたどって,ライプニッツが起源にあろうと予測しているが,実際の証拠は見出していないし,また調べてもいないようである.すでにクーチュラ版は出版されていたから,テクストは入手可能だったはずだが.それに,ライプニッツの評価があまりされていない.ライプニッツ的「論理」観も,記号法における想像力の重要な役割についても触れていない.下村の『ライプニッツ』は,1938年出版だが,読んでなかったのだろうか.もっとも,下村にも,「想像力の論理学」は出てきた記憶はないが.

三木は引用の後の箇所で模倣の論理をパスカルに依拠して「多即一の論理」と考えているが,まさのその論理がライプニッツモナドジーの基底をなしているのであるから,そこにもう少し考えが及んでいれば,ライプニッツバウムガルテン間の結びつきがもう少し検討されていたかもしれない.

ちなみに,バウムガルテンのMetaphysicaの第一版は1739年.ライプニッツの『人間知性新論』が出版されたのは1765だったはずだから,出版前の原稿でも読んでいないかぎり,ライプニッツの『人間知性新論』は反映されていないはずである.

その証拠に,バウムガルテンは,§559で,“Ergo phantasia perceptiones reproducuntur, & nihil est in phantasia, quod non ante fuerit in sensu”と述べるに留まる.あの「ただし知性そのものは除いて」というライプニッツの歴史的に重要な挿入が,現れてこない.後半はアリストテレス〜スコラの規定を踏襲しているに過ぎない.これを含め,再生産の能力としての想像力は,後にカントに踏襲されることになる.

三木自身の「構想力の論理」の構想は,ライプニッツが想像力の論理学すなわち普遍数学ということで扱った範囲よりさらに広範であり,人文科学・社会科学全般を覆うものである.そして,何より異なるのは,想像力が認識に対して果たしうる,記号的役割や形式的機能について,ある種の嫌悪感を持って,ほとんど触れられていないことである.三木はパトスとロゴスの綜合を繰り返し説き,形式や科学的分析が必要としていながら,科学的側面での「構想力の論理」の探究は,本書では皆無といっていい.学問におけるパトス的側面の分析の欠如・無視を指摘し,もっぱら,その観点から「構想力の論理」を探究している.形式的なシステムが時代を支配した,暗い時代のせいかもしれない.

しかし,現代では,これまで想像力の対象とされてきたものに関して,形式的研究が飛躍的に進んでいる.数学や論理学にとどまらず,言語学認知科学情報科学によって,想像力の科学は,いっそう発展してきている.ライプニッツが「想像力の論理学」ということで含意していた「想像力の形式化」の側面で大いなる進展があったわけで,こちらの側面を無視することはできない.文学や詩・絵画・音楽などの芸術,あるいは現代では映画や漫画・アニメなどを含む幅広い人文学的活動における「想像力の豊かさ」に関する多数の例示から,そちらを安易に称揚し,論理学や数学を含む数理科学における想像力を無視してはならない.

近年でも,哲学研究は,分析哲学の系譜に入る形式的・ロゴス的側面を強調する研究とともに,それに対立する形で,非形式的・パトス的側面を強調する研究があるように思われる.後者に関しては,三木がそうであったように,ある種の反動とも捉えられる.

個人的には,現代において「想像力の論理」を探究するというからには,形式的側面での探究が踏まえられねばならないと考える.むろん,その範囲は膨大であるから,何か特定の分野をケース・スタディに選ぶほかなく(それですら大変なのだが),守備可能な範囲で,専門的な研究を提示することが求められよう.
形式的側面つまり現代科学の成果を抑える必要があるのは,もはや古典的な認識モデルでは通用しない例がたくさん出てきていることがある.哲学の仕事があるとすれば,古典的モデルの有用性と限界を見極め,科学の新しい成果にadaptableな,新しい認識モデルを構築することであろう.
[つづく]

*1:Alexandri Gottlieb Baumgarten, Metaphysica, editio III, Halae Magdeburgicae, Impensis Carol, Herman, Hemmerde, 1779, p. 198