初心へ帰れ。
もうすっかり夏のようだ。半袖でよろしい。
研究計画を練る過程で、午前、久しぶりに下村寅太郎を読んだ。今読んでなお、いやいっそう、その偉大さが身に染みる。下村の如くなるべし。初心戻ってきた。
作業にも空腹と限界がきたので、勉強を諦め、外出。ケバブを購入、あの子と遭遇。ついでに、スペイン館にて、リュート演奏者のホプキンソン・スミスのコンサートを予約した。木曜日が楽しみだ。
夜、村田全の遺稿「連続性へのこだわり」を拝読。
そのこだわりは、自分にも当てはまることになるだろう。自分の連続性の問題への哲学史的注目は、修士におけるライプニッツの無限論の研究から自然に到達したものだ。その中で、京大での指導教官の伊藤邦武先生が訳された、C.S.パースの『連続性の哲学』に出会った。ライプニッツの数学と哲学の間を、ライプニッツの「連続体の迷宮labyrinthus continui」に関する考察に求めていた私にとって、まさには導きの糸となる書であった。とりわけ、「連続性の論理」は、初心に戻るために、繰り返し紐といている。まさに、座右の書である。それにも関わらず、いまだに良くわかっていない。それは、もっと本腰を入れてこの問題に取り組まねば、前進はないということを示している。
- 作者: パース,伊藤邦武
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/07/16
- メディア: 文庫
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初心というのはいくつかあるけど、連続性の問題に関する初心は、ある体験に大きく依存している。
実は、連続性の論理を読んだあとに見た夢で、パースに出会った。自分は、パースの前で、連続性の哲学的問題について、発表をしていた。残念ながら、発表はうまくいかなかった。パースは一言、「全然ダメ」と言っ放った。実際、その通りだった。おそらくそれは、自分でもわかっていることが、パースを借りて夢の中で告げられたのだろう。そんな生半可な勉強では、連続性の問題の本質にはとうてい辿りつかんぞ、と。そう思っていた。それでも、夢とはいえ、なかなかショックだった。それまでにも、漠然と連続性の数学的・哲学的問題に興味を持っていたのだが、その体験以来、連続性の哲学をテーマに、もっと本格的に研究することを決めたのである。
でも、意志の弱いものにとって、初心なんてものはすぐに忘れ去られるもの。だから、繰り返し読んで、思いだす必要がある。