labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

「アカデミー」の行く末。

ふと考えたこと。たいしたことではない。自分が考えてどうにかなるものでもない。ただ、漠然と、どうなるのかなぁ、と。

良く知られるように、ベルリン諸学協会の開設など、ライプニッツは学問の交流と発展のためにヨーロッパへのアカデミーの普及に尽力した。ライプニッツはパリに滞在していたときから、パリの諸学アカデミーへの入会を熱望したが、その壁は高く才能だけではどうにもならず、無念の中、帰国の途についた。しかしそれならと、ドイツでより開かれたアカデミーを作ろうと思ったのである。学び教えることを意味する「アカデミー」ではなく、学者たちの連帯、学者たちの共和国、あるいは社会を意味する「協会Sozietät」としたのも、そうした意味ではライプニッツらしい*1。その理想は、ヨーロッパではある程度受け継がれている。まず、大学へ行くのに学費がほとんどかからない。生活も、なんらかの形で補助を受けることができる。むろん、グラン・ゼコールなど狭き門もあり、学問への道が険しいことに変わりないが、基本的には誰にでも学芸は開かれている。しかし、近年その状況も変わりつつある。現在、その理想はどの程度達成されているのだろうか。そして将来どうなるのだろうか――。

誰でも世界に情報が公開でき、誰でも欲しい情報が手に入る状況。かなり近い将来、そういう時代が来る。というか、もうほとんどそうなっている。大げさではない基礎研究や教養レベルの知識であれば、専門知識を身に付けるのにわざわざ大学や大学院に行く必要は原理的にはない。(大学そのものが、学び教える場としての「アカデミー」としてすら機能していない、ということはここでは置いておく。)今のところは伝統と既存のシステムが機能し、実際面で在野でやっていくことは難しいのかなと思う。しかし、研究するのに余裕がある、資料へのアクセスが可能である、学者との交流が可能であるなど研究の十分条件が満たされており、かつ大学でのポストにこだわるのでなければ、既定のレールにとらわれる必要はなくなる。また、デカルトスピノザ、マルブランシュ、ライプニッツのように、大学機関に所属しない哲学者が出てくるのかもしれない。優秀であれば既定のレールを超特急で進むので、在野がそれに勝る選択肢になるとは少なくとも現在ではまだ思えないとはいえ。

大学に居場所を持つ身としては、情報の選別がより重要になってきてアカデミズムの壁がより一層高くなる、という方向もあるので、そうしたノウハウを身に付ける場―少なくとも関心空間ブラックホール―としてやはり大学は重要であると思いたい。たとえそれがもはやシンボル的なものでしかありえないとしても。いずれにせよ、「アカデミー」の概念が変わってきていると思う。近代初頭とでは、「社会」そのものが変わってしまったのだから。ライプニッツなら、果たしてどう考えるだろうか。

*1:酒井潔著、『ライプニッツ』、清水書院、p. 86, p. 240参照。