labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

羽生善治と「予定調和」

解析研。がんばって論理を追う。レジュメを丁寧に書いてくれるので助かる。証明を俯瞰したナイスコメントも出る。とてもいい。留学してからというもの、数学を満足に継続できなかったことがいつも悔やまれる。ほとんど手遅れだが、まだ間に合えばよいが。先はわからない。とにかく、続けれるだけ続けてみよう。

爆問学問、羽生善治の回を見た。せっかくのゲストなのに、相変わらずくだらないことばかり話してたな。行き当たりばったりすぎやしないか。たしかにそれが意外な帰結を生むこともあるけど、今回は大外れ。そのひどい状況でも、羽生先生はいいことをおっしゃる。将棋は有限、10^{220}...人間から見れば、実質的に無限か。計算機から見れば?
それにしても、羽生善治の口から予定調和を聞くとは。将棋ではときどき耳にする言葉。対局者同士の暗黙の同意によって、盤面があるところまでプラン通りに進んでいったとき、それを「予定調和」というのだったと記憶する。それはいいとして、やっぱり予定調和の一般的理解というのはネガティブなんだな。ふーむ。ライプニッツ研究者はこれまで、「予定調和」はそんな通俗的な理解をされるものではないんだよと繰り返して言ってきたんだけど、なかなかヴォルテールの『カンディード』的な予定調和の捉え方を払拭できないでいる。概念がもうがっちり定着してしまっていて、辞書などに物理的に存在するあらゆる既存の情報を全部書き換えて時間を置かないかぎり、もはや無理なんだろう。実際、それはそれで便利な概念だし。通俗的な予定調和の概念は、おそらく、「予めこうなるように万事の対応が設定されていた」という理解。それ自体は必ずしも間違いではないが、そのもとで、「すべては必然であり、人間にはなんの創造の余地もない」こと、「ならば人間がどのように振舞おうと結果は同じ」、さらには「ならば何をしてもかまわない」、「神は悪や不幸も予定した」など、そこからいいような非道徳的帰結を導き出してしまうのが問題。そうした考えは、ライプニッツ本来の考えとはまったく無縁なものだ。あらゆる思想史上の概念がそうであるように、「予定調和」は、きちんとライプニッツの体系内で理解しなければいけない。ライプニッツの予定調和の概念には、秩序あるいは適合の実在に関する深い洞察がある。その秩序や適合は、人間の観点からはその全貌が明らかではなく、研究によって徐々に見出し、また努力によって作りあげていかなければならないものだ。予定調和の概念自体、心身問題、宗教問題などの多様な問題群に対して一つの貫通的な解答を与えうるものとして、ライプニッツが日々考察する中から、練成されていった概念である。一筋縄にはいかない。そもそも何が「最善」の世界であるかなど、一部のスパンと狭い視野からでしか判断できない人間の観点で求めるべきではない。ヴォルテールはこの点で、完全に「予定調和」をはき違えていたのである。
「予定調和」の例をきっかけに、その概念的な受容についてメタ的に考察してみて、そこから少し哲学史の意義について考察してみよう。「予定調和」は、情報の伝達の中で、概念が一人歩きし、それが本来ないところの誤解を生じ、それが定着しててしまういい例を示している。「概念」は、ある言語の構造の内に場所を持つことで、その生成当時のコンテクストから離れて用いることができる。しかし、それが必ずしも良い知識や良い結果をもたらすわけではない。しばしば、その本来の意義に立ち戻らなければいけないときがある。ここに、思想史や哲学史の意義があるし、専門的な研究が必要な理由があろう。安易な概念がバーゲンセールされる時代にあって、雑多に概念を収集するよりも、残すべき概念を吟味する仕事が、今後一層問われよう。つまり、概念を詰め込むのは、この情報化時代にあまり求められていない能力なんだろう。今後は、情報を選び省略する能力の方が大事になってきそう。教養はたしかに大事だと思うが、グーグル先生にはかなわない。まだネットの図書館は不完全で、紙媒体があるからグーグルだけでは情報が揃うわけではないいけど、そのうちほとんどネットで手に入るようになるんだろう。本当に必要で洗練された情報だけを、うまくパッケージ化することが問われそうだ。かくいう自分も、最近、ちょっと知識を詰め込む傾向があるので、少し方向性を改めるべきだと、今頃気づいた次第。それ以前に、基礎体力を鍛えないといけないんだけど。しばらく、広大なネットから離れて、黙々と筋トレに励みたい気分。