labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

グラスマンの数学論と認識論。

ポアンカレセミナー@マルセイユ
今日はマルセイユの数学方面やナンシーのアルシーフ・ド・ポアンカレとのコラボの一環で、ポスドク・フェローのパオラ・カントゥさんによる、グラスマンの数学論と認識論についての発表会。

Hermann Günther Grassmann wiki線形代数の祖として数学ではよく知られているが、哲学ではほとんど知られていないか聞いたとしても名前ぐらいではないかと思う。

ライプニッツの数学思想をやるものとしては、しかし、ぜひとも知っておかねばならないところである。というのも、グラスマンはライプニッツの位置解析(Analysis Situs)に関する懸賞論文で賞をもらっており(応募者一人)、ライプニッツのアイデアを完成したとも、批判したとも言われる。

今年は生誕200年ということで、先週、出身地である現ポーランドのシュチェチン(Szczecin)とドイツのポツダムにて、From Past to Future: Grassmann's Work in Context, Grassmann Bicentennial Conference (1809 – 1877) September 16 – 19, 2009 Potsdam / Szczecin (DE / PL) という大規模な大会があった模様サイト

現在、著作の多くが以下からDLできる。
Hermann and Robert Grassmann - Free digital copies of books link

さて、発表の題目は、「ヘルマン・グラスマンと外延的形の幾何学的積に結び付けられた存在論的変遷―ヘルマン・ギュンター・グラスマンの認識論的考え」。

専門外なので詳しいところは分かりませんでしたが、とても刺激的で面白かったです。カントゥさんは博士論文をグラスマンで書かれており、全著作の綿密な分析を通じて得られたエッセンスを、数学的・哲学的部分に分けて説明してくれました。スライドが英語、口頭発表が仏語、そして研究対象が独語という、うらやましい限りの離れ業をやってのけたので、追うのはなかなか大変でした。短い時間であり、発表原稿ももちろん手元になく(フランス・スタイル)、数学的部分はともかく哲学的部分もきちんと理解できたわけではありませんが、要点部分はある程度理解できたように思うので、気になったところだけをつまんでみましょう。予め、誤解・無理解・不可解な点があることを断っておきます。

まず、数学的部分に関して。数学を<形 form>の理論とし、<形>一般を数学の対象、外延的大きさ一般を「外延論」の対象としている。外延的<形>extensive formsとは、連続的変化によって生成される要素の総体のことを意味する。対して、大きさは相等関係(=)が成り立つ対象である(この区分は、後でも述べるが、極めてライプニッツ的である)。「外延論」は、大雑把に言えば、ベクトル計算の手法を幾何学に導入したもの。それによって、幾何学は延長的大きさのベクトル的表現として規定されるゆえに、幾何学は外延論の応用にすぎないとされる。外延論を基礎とすることで、比例論が要求する図形figureの同次性条件homogeneity conditionから解放され、積productが基礎概念となる。そして、そこでは、幾何学的図形から抽象的延長的<形>へ、関係から操作へ、という存在論的なシフトが起こっている。このように、グラスマンは外延論によって、幾何学の定義、幾何学の基礎、幾何学的対象を改訂し、幾何学的対象を特徴付ける新しい操作を導入した。

次に、哲学的・認識論的部分に関して。両者に共通の動機として、従来の代数解析が幾何学の構成を十分に組み尽くしておらず、より豊かな幾何学的計算を新しく構築せねばならないことがある。先に見たように、大きさ(量)の学としての数学の古典的概念から離れ<形>の理論ということで質的数学を捉えているところ、および、ベクトル計算を導入して幾何学をある位置計算に還元するところに、ライプニッツとの親近性を見てとることはできる。

しかし、これらの点を除けば、際立つのはむしろ差異の方であった。
まず、グラスマンは、数学的<形>を「普遍的なものuniversal」ではなく「個別的なものparticular」と看做す。<形>は、常に与えられているものではなく、構成されるものである。次に、各分野はその対象すなわち<形>の特殊性に応じてそれぞれ異なる生成規則すなわち異なる操作を持つ。したがって、操作に依存する「一般化generalization」は「拡張enlargement」を含意する概念とはみなされず、むしろ基本操作を定義している条件を修正することとみなされる。以上から、数学的対象の構成主義とともに、数学的操作に関する規約主義がとられる(規約主義はただし『外延論』第2版)。

感想と質問。「<形>は普遍的ではなく特殊的(個別的)に構成されるものである」というグラスマンの外延論から帰結する哲学的主張には、少なからぬ衝撃を受けた。こちらに伝統的な偏見があったからかもしれない。自分も質問してみたが、発表後の饗宴の場が静まりかえったので、全くの的外れだったのか、的確なところをついたかのいずれかでしょう。先生がうんうんうなずいていたので、後者に期待。つまり、<形>を個別的なものと捉えることの、数学的・哲学的意義は何か。たとえば、幾何学が外延論の応用にすぎず、幾何学的対象である外延的<形>が特殊なものにすぎず、操作もまた規約にすぎないならば、いかにして幾何学の応用が可能なのか。グラスマンにおいて、もはや普遍数学はおろか、普遍性もないのか。

回答らしきもの。内容をきちんと理解できたわけではなく質問が抽象的かつ大きすぎたが、いくつかのレスポンスを頂いた。それをうろ覚えがてらバイアスを通して再構成しているので、カントゥさんの回答そのものではありません。まず、なぜ「個別的」なのかに関して。数学的対象はある単位を任意に選びそこから操作によって構成される。そこである単位を選ばざるをえないところに、個別性を見ているようである。<形>はdonnéeとは限らず新しく構成されるものもある。操作は固定されるが、どの操作を用いるかは規約による。それから「応用」の問題について。上述したグラスマンの構成主義・規約主義の考え方からは、当然のように各数学的分野の「独立性」が帰結する。数は外延の特殊な種類ではない。ただし、数論と幾何学という交流しえない2つの分野がそれとしてある(アリストテレス)、というわけではない。当然、両者の関係は比例論的なそれとは異質のものとして捉えられることになる。発表では、それは「構成プロセスを鏡映化する問題matter of mirroring the construction process」である、という主旨のことを述べられていたと思うので、そこに、「応用」の問題に対する回答のヒントがあると思われる。最後に、いわゆる「普遍数学」的伝統には入らないと思うが、先にも見たように、「質的数学」の展開という動機を見れば、“ライプニッツの”「普遍数学」観をいくらか共有してはいよう。

蛇足。このことに関連して、某先生がディスカッションでカントの構成概念の理解に近いのでは、と言っていたので、カントとの類比でより明らかになるかもしれない。哲学的には、カントのほかにシュライエルマッハーやシェリングらの影響を受けているようだが、グラスマンは哲学的な部分はあっても、あくまで数学者であるとのことであった。グラスマンの数学論に関する哲学史的な文脈での受容はおそらくないか、少なくとも一般に知られておらず、残念なことである。

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セミナー後、カントゥさんと無限小談義。無限小関連も研究を進めたいなあ。残るJ君が乗り気になったので、まだテーマや形式は正式に決まっていないが研究会をやることになりそう。12月から月一で、最初の担当者は発起人。そのJ君は某難関試験に通り、スタージュも終えて、数学教師の職を得ることが決まった。たいへんめでたいので、ささやかなお祝いパーティを研究会後に企画しよう。