labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツにおける数学の位置づけの問題

ガリレイデカルトにとって幾何学と自然学が相即的であり、ニュートンにとって幾何学が物理からの抽象である(ヤンマー)のに対し、ライプニッツにとって幾何学は物理からの単なる抽象ではなく、物理から分離されても理解可能である。なぜなら、数学は、自律的学問として成立するものであり、少なくともその部分では、物理的内容も、形而上学的内容も持たないからである。もっとも、デカルトニュートンも、数学が持つ自律的性格を否定するとは思えない。とすれば、ガリレイデカルト、ニュ−トンからライプニッツへ、数学の位置づけは何が劇的に変わったのだろうか。ライプニッツに特徴的なのは、数学が持つ形式的記号体系の側から、自然現象を解釈しようと試みた点である。したがって、第一には、記号論的考察に基づく徹底した記号主義(シンボリズム)が、彼らとライプニッツを分け隔てていよう。

しかし、形而上学的部分に目を向ければ、ライプニッツにとってすべては関係しているのであった。数学、自然学、そして形而上学は各々まったく純粋に閉じているわけではなく、それらのあいだには、何らかの表出関係がある。したがって、連続律ないし一般的秩序の原理により、異なる理論間にも何らかの対応を原理的に構築しうることになる。さて、この表出関係は、因果関係のような、条件と帰結の強い依存関係を想定するものではない。そこに想定されているのは、関数論的な秩序的対応の関係(同型的対応、シンメトリー、etc.)が構成できればそれで十分であるような、ゆるやかな構造上の類比関係である。因果の関係と区別して、これを「理由」の関係と呼ぶことができよう。むろん、理由律がその名づけの根拠としてある。ライプニッツのシンボリズムは、世界が理由の関係としてあるという考えと接続する。ライプニッツのこのような考えを、「宇宙のシンボル的調和の思想」と呼ぶことにしたい*1。ただし、このことでライプニッツの体系を記号主義に還元するつもりはない。記号主義はライプニッツの哲学の重要な性格を示しているとはいえ、あくまでも一つの側面にすぎない。いずれにせよ、ライプニッツの数学の独立性・自律性の主張は、こうしたライプニッツ形而上学的考察のもとで、はじめて十全に理解されうるものである。

容易に理解できるように、この考えは、実践において諸理論が互いに交流し合うことを妨げるものではない。一方の結果が他方に影響を与えること、そして一方が他方を表現することは、次元の異なる問題だからである*2ライプニッツ自身にとっても、数学と物理学は研究上不可分なものとしてあった。また、そうした数学研究が哲学に与えた影響も計り知れない。その逆も同様である。デカルトニュートンライプニッツにおける数学の位置づけについて、比較すること。

*1:モナドから成る同一の宇宙に関して、諸モナドが各々異なる観点から表象した諸記号的体系のあいだに、表現(表出)の関係に関するある秩序的対応があるとする形而上学的思想のこと。拙論,『ライプニッツの連続性の哲学』,京都大学文学研究科提出,2009年3月.

*2:しかし、ライプニッツおいて因果関係と表出関係の関係がどのように理解されているのかは、まだまだ考察の余地のある問題である。その手がかりとして、因果性の問題に光を当てた最近のライプニッツ研究であるMichael Futch, Leibniz's Metaphysics of Time and Space, Springer, 2008が参考になるかもしれない。日本でも、松田毅先生が、ライプニッツ研究で見過ごされてきた因果性の問題についていくつか研究を発表されており、そこではFutchに関しても言及している。したがって、興味がある向きはまずそちらを参照せよ。