labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

幾何学的対象はタイプなのか

飯田隆「タイプとイデア──幾何学的対象の存在論──」

URL =< http://greek-philosophy.org/ja/files/2018/03/Iida_2018.pdf>

を数日前に読んで、刺激を受けたのでその感想など。

 本稿の基本的な考えは、幾何学的対象はタイプとして存在する、描かれた図形はそのトークンと考えられる、というもの。はじめにプラトン『国家』を引用し、イデアとその似像の関係としてそのことが示唆されている。だが、もちろんプラトン的なイデア論を採用するわけではない。あくまで問題提起と基本的な考え方の枠組みとして参照する。その意味では、プラトンは現代でも生きている。

 読んでいて、ここは大森荘蔵をわざわざ持ち出してくる必要がないことが明らかなような箇所でも、大森荘蔵が出てくるなあ、という印象。しかし飯田は、幾何学に関する知覚の哲学という観点を、大森から得ているのであり、大いなるリスペクトを感じる。

 タイプではなくて、概念でも良いのではという想定批判に対して、飯田は、タイプとトークンの関係が、概念=普遍者とその個別的事例の関係とは異なる、と分析する。自分は概念とタイプの区別について、これまでそれほど意識していなかったので、良い気づきを得られた。同時に、こうした問題を扱う上で、やはり「概念」ということばが人によっていろいろに捉えられすぎなのがネックになってきそうである。

 飯田が問う「タイプの観念はどこから来るのだろうか」などは、まさに今自分が研究している抽象と概念形成の問題とも関係してくる話題である。概念形成の問題とは、概念の起源を問うことだからである。ただ自分の場合、やはり不用意に概念とタイプの混同をおかしてしまっているように思う。むしろ、この誤ちの認識から、抽象的対象の形成と概念形成の差異を検討するという今後の課題を得られた。

 もっとも、飯田の議論には、推測に基づく部分もかなり多く、典拠もほとんど挙げてないので、ここから後付けを探すのが困難である。それほど綿密に検討した論稿ではないと言わざるをえない。ただ、重要な論点を指摘していることに相違なく、脳内は飯田先生絶賛の嵐。ぼくがやろうとしている研究の方向性を見定める上で、一つの導きの糸になるかもしれない。

 疑問というか、もし問題があるとしたらということだが、飯田先生にはタイプ的存在者に関する、ある種の固定した考えがあるように思われるが、本稿においてそれが必ずしも明確に規定されているわけではないこと、および、そのタイプに関する考えが果たして固定した議論の余地のないものなのかどうかということ。

 思うに、飯田には、概念やタイプというものを心的対象の外側に置くことができる、という前提ないし言語哲学の分野での共通了解がある。タイプはどこに存在するのか、またそれはいかにして認識されるのか。述語と結びつけて概念を考えるフレーゲ的前提も見られる。「概念」と「タイプ」という用語についての整理から自分はまずしなければならないと感じた。これだけでも、大きな収穫だ。

 自分の研究の方向性として、数学における概念形成の問題をやっていこうと考えている。その関係上、数学の言語哲学よりも認知心理学神経科学の知見を踏まえた数学の認知哲学に関心があるが、そのつながりを考えさせてくれもする。しばらく哲学史方面の研究ばかりで、言語哲学や数学の哲学そのものの勉強から離れていたので、とても良い刺激になりました。

「分析形而上学」入門

現代思想43のキーワード』から、鈴木生郎さんの「分析形而上学」の項を読んだ。分析形而上学の方法論に論点をしぼった良記事でした。

 

現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集◎現代思想43のキーワード (現代思想5月臨時増刊号)

現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集◎現代思想43のキーワード (現代思想5月臨時増刊号)

 

 

以下、いくつか抜粋して紹介し、最後に簡単なコメントを付します(主にTwitterでつぶやいたもの)。

分析哲学形而上学の排斥という側面をもったのは、論理実証主義と日常言語学派の哲学が影響力を持った一時期(1930年代ー60年代)にすぎない。」

「現在分析哲学において形而上学を研究する哲学者は、自分たちのことを「分析形而上学者」と呼ぶことはほぼなく、単に「形而上学者」と称する。 このことが意味するのは、多くの形而上学者は、自信の探求を分析哲学以前(以外)の形而上学的探求と区別せず、 形而上学という単一の学問の系譜に属するものとみなしているということである」

形而上学の方法論に関して近年特に問題となっているのは、しばしば現代の形而上学者が、問題解決にあたって「概念分析」という手法を用いる点や、 形而上学的主張を正当化するために「直観」ないし「常識」に訴える点である」

「一部の形而上学者は・・・概念分析という手法や直観および常識の援用に懐疑的である。 こうした形而上学者は、むしろ形而上学を科学理論と連続的なものとみなし、 よりよい科学理論を選ぶための方法を形而上学に援用する。 たとえば、単純さや節約性、あるいは説明力の高さによってよりよい形而上学的立場を選ぶのである」

「他方で、自由や日常的事物のあり方のように、われわれの概念理解がその本性からかけ離れているとは考えにくい主題もまた存在する」

「直観や常識については、その信頼性が確固たる科学的知見に比べて劣ることが認められる一方で、 特別に疑う根拠がない場合にその信頼性を疑うこともまた極端である」

「基本的に形而上学者に求められるのは、この世界に関するひどく答えにくい問題に、利用できる資源を慎重に吟味しながら答える以上のことではない」

 

 コメント

アリストテレス的現代形而上学』なども翻訳され、日本でも分析形而上学が流行している印象がありますが、この原因は何なのでしょうか。

「概念分析」という手法や、「直観」と「常識」に訴える哲学方法論に対するオルタナティブとして、現代では「実験哲学」の興隆があげられます。また、従来の「概念分析」という手法を自然主義的観点から反省し、概念分析を自然化した「概念工学」conceptual engineeringという手法が近年クローズアップされています。 形而上学は、こうした現代的な哲学的方法論とどのような関係に立つのでしょうか。(なお、「実験哲学」や「概念工学」は『現代思想43のキーワード』に入っておらず、比較できずやや残念。何で入ってないの。)

形而上学内部でも、従来の手法に懐疑的になっており、(ネオ)プラグマティズム的あるいは自然主義的な規準や、自然科学の知見を形而上学に取り入れる柔軟性が、現代の形而上学にはあるようです。

 概念分析だけではなく、問題に応じて自然科学の知見やマルチな方法論を取り入れる可能性を認めるとすると、 もはや分析哲学の中での形而上学の一派というより、広く「形而上学者」と名乗るのが妥当だろうと、わたしも思いました。しかし、分析哲学も他分野と協同し、ボーダーレスになっている印象ですが、それでも「分析」形而上学と言われる、その核がいったいどこにあるのか、私にはよくわかりませんでした。

マルチな方法論を取り入れる際、問題となるのは「説明のレベル」をどう擦り合せるか、ということになるように思います。複数の説明レベルを、統一したり還元することなく、そのまま多元論的な仕方で許す、というのはしかし、普遍的な説明を探求する形而上学として、アリなんでしょうか。ミクロな現象とマクロな現象を説明するのでは、物理学でも理論が異なるわけですが、もし多様な事柄を普遍的に説明しようとする場合、それ以上に複雑なレベルを統御しなくてはならなくなります。これをどのように包括的説明へともたらしうるのかが、形而上学の方法論の課題として(あるいは哲学一般の方法論的課題として)あるように感じました。そこらへんの疑問を解消するには、哲学方法論ないしメタ哲学の専門書に当たるべきかもしれません。

 

分析形而上学に関しては、その興隆の歴史を描いた邦語論文がいくつか出ているようです。たとえば、

野家啓一形而上学の排除から復権まで−−哲学と数学 ・論理学の 60年」『科学基礎論研究』2016, 31-36。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron/43/1-2/43_KJ00010256964/_pdf/-char/ja

論理実証主義の興亡を軸に、形而上学の哲学の排除から分析形而上学の興隆までをコンパクトに描いています。

 

伊佐敷隆弘「なぜ無ではなく何かが存在するのか─分析哲学における形而上学の盛衰─」

http://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/77/77-14.pdf

こちらは、「存在の謎」をめぐる議論を中心に、論理実証主義による形而上学批判から、分析形而上学の興隆による形而上学復権、そしてメタ形而上学の登場までをコンパクトに描いています。クリプキの固定指示詞の考え方がもつインパクトと意義がよく説明されている印象です。野家論文ではコンパクトすぎた感があったのを、もう少し埋めてくれます。

 

しかし、いずれも、思想の大きな流れを掴みたい、という意図はよくわかるのですが、これではあまりにコンパクトすぎますし、歴史的な経緯がこれで説明できているとは到底思えない内容です。

歴史的厳密性と哲学的意義をどのように調和させるのか、という問題はありますが、歴史を扱う、歴史に踏み込む、ということの方法論が、あまりに意識されていないように思うのです。

近年、「分析哲学史」という分野も興隆しており、そこでは影響関係など歴史的詳細に立ち入ったかなり綿密な議論が展開されていることを踏まえると、分析形而上学ないし分析哲学もまた、そうした歴史性とどう向き合うのか、真剣に考えるときが来ているように思いました。

 

クーチュラと『ライプニッツの論理』

GWに入って、ようやく溜まっていた仕事に集中する時間が少しとれそうです。手始めに、とある事典で担当した項目のうち、クーチュラと『ライプニッツの論理』についてドラフトを書きました。

制限字数内にまとめるのが大変で、資料の消化と執筆にずいぶんと時間をかけたわりには、内容を十分に盛り込めなかったように思います。いずれ、クーチュラの無限論や論理計算をはじめ、論理学・数学の哲学についてはもっと深く掘り下げて研究してみたいと思います。クーチュラに関してはあまり日本語では研究がないように思うので、次は論文などもう少し大きな媒体で、何かまとまったものを書きたいですね。

ラッセル、クーチュラ、カッシーラーの「ライプニッツ3大基本書」を振り返る〉、のようなシンポジウムも、そのうち企画できたらいいなと考えていますが、果たしてお客さんは来てくれるのだろうか。

 

クーチュラ

LouisCouturat1868-1914

  フランスの哲学者・数学者。ライプニッツや数理哲学を研究、国際言語計画にも従事した。パリに生まれ、1887年に高等師範学校エコール・ノルマル・シュペリウール)入学。1890年に哲学教授資格を取得するが、数学の勉強を続けるため1892年まで在学。1896年、博士主論文『数学的無限』を提出。ラシュリエポアンカレの弟子、またラッセルの友人として、多くの数学者・哲学者と交流。1901年に『ライプニッツの論理』、1903年に『未編集の著作と断片』を出版。遺稿から汎論理主義に基づく新しいライプニッツ像を提示し、ライプニッツ研究を革新。『論理の代数学』(1905)も、クラトフスキやルネ・トム、タルスキら著名な数学者・論理学者に影響を与えた。1914年8月3日、車の運転中に軍用車と衝突し事故死。46歳で早逝。

【初期カント主義】

 1896年、エミール・ブトルーやタヌリらの審査の下、『数学的無限』で文学博士号取得。哲学を事象ではなく観念、自然の法則ではなく精神の法則の研究とみなし、カントの批判的認識論を採用。第一部「数の一般化」では、既存科学による数学的無限のア・ポステリオリな論証、第二部「数と大きさ」では、数の経験主義を批判し、数と大きさの概念を分析することで、数学的無限のア・プリオリな論証を試みた。ルヌーヴィエとカントの有限主義を批判し、論理と理性を区別するクルノーに接近。無限を数学と形而上学双方の観点から擁護し、数学に理性主義的な基礎を認めた。

【カント主義からライプニッツ主義へ】

 ライプニッツに関する著作を出した1901年以降、カント主義を放棄。思想の普遍性を支持し、経験から独立な哲学と科学との間の対応関係を措定する、徹底した理性主義者となった。また1904年のカント没後百年記念に際し、近代の論理・数学の進展の観点から、直観と総合を根幹とするカントの数理哲学の枠組みを根本的に批判。カントはアプリオリな総合判断の存在を主張し、形而上学と数学の間に明確な境界を引いた。それに対してクーチュラは、ライプニッツの体系の核心を「あらゆる真理は分析的である」という理性的原理に洞察し、形而上学的思惟と数学的発見の紐帯をライプニッツの論理学に発見する。そして、論理と数学の融合を果たした点で、カントよりもライプニッツに理があるとする。

【数学の哲学】

 さらに、新しいアルゴリズム的論理の真の起源をライプニッツに見出す。ラッセルの『数学の原理』(1901)にインスパイアされ、1905年、『数学の原理』を出版。記号論理学の進展をコンパクトにまとめた概説書である。同年『論理の代数学』も出版。論理学は、クラス概念やそうした概念間の包摂関係以外にも、多くの種類の概念や関係を研究する必要がある。こうして、「数学の真の論理は関係の論理である」と主張。それは、ライプニッツが予見しブールが築き、パースやシュレーダーが発展させ、ペアーノとラッセルが確立したものの延長にある。フランスに記号論理学を導入、その価値をめぐってカント的なポアンカレと論争した。

【国際言語研究】

 もう一つの主要な活動は、異言語間のコミュニケーションを成立させる、補助的な国際言語の探究である。これも、ライプニッツ研究を通じて普遍言語計画に関心をもったことに起因する。普遍言語の歴史を分析し、従来の哲学的言語が思想と言語の間の完全な対応を目指したとする。それに対し、あらゆる自然言語に中立的で、自然言語をモデルとするより現実的な人工言語を目指した。(池田真治)

(文献) Louis Couturat, De l’infini mathématique, Albert Blanchard, 1973; L’algèbre de la logique, 2eéd., Albert Blanchard, 1980. M. Fichant et S. Roux (éd.), Louis Couturat (1868-1914) : Mathématiques, langage, philosophie, Classiques Garnier, 2017.

 

ライプニッツの論理』(クーチュラ)

La logique de Leibniz, 1901

 クーチュラは博士論文提出後、ペアーノ学派やホワイトヘッドの普遍代数を介して、ライプニッツの論理学を研究。数理論理学の展開をその起源に遡って再構成し、研究を前進させようとした。本書によりライプニッツの論理学を遺稿資料から解明。また理性主義を標榜し、当時支配的だったカント的思考と対峙。カントはア・プリオリな総合判断を主張し、形而上学と数学の間に明確な境界を引いた。それに対し、ライプニッツでは、必然的/偶然的を問わず、あらゆる真なる命題はその述語を主語のうちに含む。すなわち、あらゆる真理は項の分析によってア・プリオリな同一命題に還元されうる。理由律を「あらゆる真理は分析的である」と解釈し、ライプニッツ形而上学がこの論理学的原理のみから生じるとした。こうして、論理学は形而上学と数学を繋げる紐帯として体系の中心に置かれる。実在に理由は完全に浸透しているので、実在は理性によって完全に看破可能である。ライプニッツ哲学を理性主義の最も完全な体系的表現と見て、「汎論理主義」と特徴づけた。

 ラッセルも論理主義的解釈を提出したが、内容は異なる。ラッセルはライプニッツの論理学を判断分析の認識論とみなし、ライプニッツの体系がいくつかの原理に還元されるものの、それらが互いに矛盾しているとした。他方で、クーチュラにとって論理学はアルゴリズム的な論理計算であり、普遍記号法とも結びつくものであった。またクーチュラは体系の整合性を主張し、ライプニッツの論理計算や位置計算に現代的な関係の論理学の萌芽を見る。しかし、アリストテレスやスコラの伝統に対する教養と尊敬が、その展開を阻害したとする。汎論理主義の影響力は大きく、広く受容された。個体的実体をモナドと同一視し、体系を論理のみから展開して神学や動力学を無視したなど批判もある。(池田真治)

(文献)Louis Couturat, La logique de Leibniz, d’après des documents inédits, Félix Alcan, 1901 (Georg Olms, 1985).

 

theseus.hatenablog.com

 

ダヴィド・ラブアン氏 特別講演・特別講義のお知らせ


フランスからダヴィド・ラブアン氏(David Rabouin, CNRS / Paris-Diderot)をお招きして、いくつかの講演と講義をしていただく予定です。ラブアン氏は、数学の哲学、とりわけ普遍数学思想が御専門です(ラブアン氏に関しては、詳しくはこちら )。おおよそ決定している催しは、以下のものです。
 
 
2019年3月29日 シンポジウム「初期近代の数学の哲学」
第一講演:東慎一郎氏(東海大学)「伝統と革新のはざまで――16世紀数学論を振り返る」
第二講演:ダヴィド・ラブアン氏(CNRS / Paris-Diderot)”Traces of the Quaestio de Certitudine in Early Modern Mathematics”
時間:14:00-17:00
場所:神戸大学国際人間科学部 E棟4階学術交流ルーム(E410)
主催:日本科学史学会・阪神支部
助成:武田裕紀科研費JP16K02223・池田科研費JP16K02113
 
 
 
2019年3月31日 日本ライプニッツ協会・春季大会

ダヴィド・ラブアン氏特別講演:"Leibniz on reduction to identities

時間:13:00-17:00
場所:富山大学人文学部・大会議室
主催:日本ライプニッツ協会
助成:池田科研費JP16K02113
 
 
 
2019年4月1日  ダヴィド・ラブアン氏「普遍数学」特別講義
時間:13:30-17:00
場所:富山大学人文学部・第1講義室
助成:池田科研費JP16K02113
 

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ラブアン氏普遍数学講義チラシ


 
4月1日の講義の参加者が心もとないので、西から東からどしどし富山に押し寄せてください。講演・講義言語は基本的には英語の予定です。
 
 
 
2019年4月3日  ダヴィド・ラブアン氏を囲む会
ラブアン(David Rabouin)氏のお仕事をめぐるささやかな会を下記の要領で催します。
氏のお仕事をめぐって質問形式でもろもろお話し頂くインタヴューの会です。
時間:16:00-18:00  
場所:東京大学文学部哲学研究室(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/map.html)  
助成:池田科研費JP16K02113
司会:鈴木泉(東京大学・教授)
通訳:佐藤真人東京大学・PD)

クーチュラ『論理の代数学』

ルイ・クーチュラ『論理の代数学』(1905; 第2版:1914)から、
冒頭と結論部のみをざっくりと抄訳してみました。

リプリント版がOlmsや、次の出版社から出ています。

Louis Couturat, L'Algebre de la Logique, 2e édition, Réimpression : Albert Blanchard, Paris 1980.


1. 序論.− 論理の代数学は、ジョージ・ブール(1815-1864)によって基礎が築かれ、エルンスト・シュレーダー(1841-1902)によって発展・改良された。〔クーチュラは本書でこの分野の形式化をさらに推し進める。〕この計算の根本法則は、推論の原理ないし「思考の法則」を表現するために発明されたものである。〔ブールのAn investigation of the Laws of Thoughtという書名にもそれが表れている。〕しかし、この計算を、恣意的に措定されたいくつかの原理に基づく代数学のように、純粋に形式的な観点すなわち数学の観点から考えることができる。この計算が、果たして精神の実在的操作にどの程度まで対応するのかとか、推論に翻訳したり置き換えたりするのが適切なのかという問いは、哲学的な問題である。この問題についてはここでは扱わない。この計算の形式的価値および数学者にとっての関心は、それに与えられる解釈や、論理学的問題になされうるその応用からは全く独立である。ひとことで言えば、われわれはそれを、論理学としてではなく、代数学として提示するのである。〔たとえば、本書で三段論法は、(a < b)(b < c) < (a < c)のように代数学的に表現される。〕」


60. 結論.− 以上の説明は、主題を汲み尽くすにはほど遠い。それは、論理の代数学の完全な概論であることを主張するものではなく、この学問の初等的な原理と理論を知らしめるものにすぎない。論理の代数学は、固有な法則をもつあるアルゴリズムである。それは、一方で通常の代数学といくつかの面で極めて類似しているが、他方でそれとは非常に異なるものである。たとえば、前者は次数の区別を無視する。トートロジーの法則と吸収律は、そこに大いなる単純化を導入して、数的係数を排除する。それは、あらゆる種類の理論や問題を生じさせうる、またほとんど無際限に発展可能な、形式的計算なのである。
 しかし、同時にそれは、ある閉じた体系なので、あらゆる論理を包摂するにはほど遠いことを示すことが大切である。厳密に言えば、それは古典論理〔伝統的なアリストテレス論理学〕の代数学にすぎない。したがって、それは、アリストテレスによって限定された領域、すなわち、概念間の包含関係および命題間の含意関係の領域の内に閉じ込められたままである。たしかに、古典論理は(その誤りや重複を捨象しても)論理の代数学よりもはるかに狭い。それは、三段論法の理論の内にほとんど完全に監禁されていたのであり、今日ではその境界は極めて制限され人工的に見える。それにもかかわらず、論理の代数学は、同じ次元の問題を、より豊かさと一般性をもって扱う以外には何もしない。それは、その包含関係または同一性の関係において考察された集合論以外の何ものでもない。ところで、論理学は、遺伝的概念(クラスの概念)やそうした概念間の包含関係(包摂関係)以外にも、他の多くの種類の概念や関係についても研究せねばならない。ひとことで言えば、それは、ライプニッツが予見し、パースとシュレーダーが築き、ペアノ氏とラッセル氏が決定的な基礎を確立したように思われる、関係の論理学をそのうちに展開するのでなければならない。さて、古典論理と論理の代数学が数学にとってほとんどいかなる有用性もないにもかかわらず、数学は関係の論理学においてその概念と根本原理を見出す。数学の真の論理学とは、関係の論理学である。論理の代数学は、それ自身、個別の数学理論として、純粋論理学に属するものである。というのも、それは、われわれが暗黙的に措定した諸原理に基づくからである。また、それは、代数的ないし記号的表現が可能なものではない。なぜなら、それは、あらゆるシンボリズム〔記号法〕およびあらゆる計算の基礎であるからである〔原註:演繹の原理および置換の原理。『数学の諸原理』Ch. I, Aを見よ。〕こうして、次のように言うことができる。すなわち、論理の代数学は、その形式とその方法とによって、ひとつの数学的論理学である。しかし、それを数学の論理学として採用する必要はないのである。」


追記
M. Loiによる本書の解説の部分も粗訳してみました。

出典は、Encyclopédie philosophique universelle, Les Œuvres philosophiques Dictionnaire

「この小さい概説書は、包摂(inclusion)の形式論理学の革新に着手するものであり、数学の方法に類似した方法によってその推進力を得ている。また、ブールやシュレーダー、ド・モルガン、ヴェン、ポレツキー、ホワイトヘッドらの仕事の主要な結果を知らしめるものである。クーチュラは、ある真なる計算を与えることで、恣意的に措定されたいくつかの原理が、いかにして厳密に連鎖した諸定理や式の全体を演繹するのかを示す。この計算は、項をして概念を表現するものとして考えるか、あるいは命題を表現するものとして考えるかに応じて、二重の解釈を受け取りうる。しかし、それら二重の解釈を与えることができ、それ自身として研究されねばならないものとしての論理体系が、その二重の解釈に前存在するのである。
 第一部では、論理の代数学が基づいているところの原理と操作が説明される。その基礎には、定義不可能な第一の概念として、包摂関係が置かれる。それは、概念的解釈においては「内に含まれる」によって、また命題的解釈においては「含意する」によって、定義することなしに翻訳しうる。
 次に著者は、普遍的命題や特殊な命題が変数に対して適用された時、いかにして論理関数の積と和についての考察が、それらの命題を翻訳することを許すのかを示す。彼は多変数関数および複数の未知項を含む方程式の理論を展開し、ブールの問題などを扱う。
 結論では、クーチュラは論理学が、遺伝的概念(クラスの概念)や包摂関係以外にも他の種類の概念や関係を十分研究せねばならないと明言する。論理学は、ライプニッツが予見し、パースやシュレーダーが築き、ペアノやラッセルが決定的な基礎のもとに確立した関係の論理学において展開されねばならない。数学はこの関係の論理学において、その根本的な諸概念と諸原理を見出す。真の数学の論理学は、関係の論理学なのである。」

研究メモ:ヨハン・ベルヌーイ自伝


ライプニッツの原子論論文の校正が終わって、
今は無限小論文の校正中。


ヨハン・ベルヌーイがライプニッツ微積分に出会ったときの印象について、
「解説というよりも謎かけだった」と述べているようなのですが、
その正確な典拠を調べていたら、次の資料をネットで見つけることができました。

Rudolf Wolf, Biographien zur Kulturgeschichte der Schweiz, 2. Cyclus, Zürich, 1859.


表題からはわかりづらいのですが、p. 71- ヨハン・ベルヌーイの自伝になっています。
これは近世数学史に関心がある方は、読む価値がありそうです。


典拠はすぐ次の頁にありました。

「・・・兄[ヤコブ]と私は、1684年のライプツィヒ学報に収録された、ライプニッツ氏の小論に偶然出会った。そこではたった5-6頁で、微分計算についてのごくあっさりした考えが述べられていた。それは解説というよりも謎かけだった。しかし、ほんの数日の間でそれを深く掘り下げてあらゆる秘密を明らかにし、それから無限小という主題についていくつもの作品を出版するには、われわれにとってはそれで十分であった。」(Ibid., p. 72)


ベルヌーイ家の解説などを読むと、良く引用される箇所で、わりと有名な資料らしいです。