labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ルベーグの「数学者は、数学者であるかぎり、哲学に没頭すべきではない」という主張について

ひそかに測度論の勉強を進めようと思いつつ、なかなか数学に集中する時間も体力もないので、研究室のソファーに寝転がり、ルベーグの書をふと手に取った。そこに、非常に面白い発言があったのでメモをとる。

ルベーグ『量の測度』みすず書房、1976年。


原著は、

Henri Lebesgue, Sur la Mesure des Grandeurs, L'Enseignement Mathématique, Genève, 1956.


本書で、ルベーグは率直に、数学的内容から哲学的考察を排除すべきことを主張している。

当時にあってはかなり現代的な独自の見解が語られるのは、第I章と結論である。

第I章では、観念論的な数学観を批判し、「算術は実験科学である」という経験主義の立場を表明している。また、数学の基礎についての哲学的考察をすることが行われていた当時の数学教育のあり方について、経験に頼らないで数概念を解明しようとするようなあいまいな形而上学を授業から引き離すべきだと批判している。

このことでルベーグは、数学の問題に取り組むに当たっては、厳密な数学的実践において集中すべきことを主張しているように思われる。

したがって、本論を構成する2章から7章まで、「普通は、数学の基礎が問題にされるときはいつでも、哲学的見解が取られる」が、「私は思い切ってそれはしなかった」と言う。

このようなルベーグの態度の中に、哲学に対する侮辱を、人は見るかもしれない。

しかしルベーグは、むしろ、哲学を乖離させることは、これまで哲学が長い間考察してきた難しい諸問題に対して、無知な数学者が、早急で軽率な結論を出さないためなのである、と考えている。すなわち、「私の無能力を率直に認めることで、私は哲学に対して心からの本当の尊敬が証明されると思う」、と(ルベーグ『量の測度』、183頁)。

また、同じ8章の結論部で、ルベーグは次のように述べる。

「われわれは哲学を尊敬すべきである。しかしだからといって、それがわれわれの科学をよりよく理解するためにも、またそれを進歩させるためにも、たすけになりうるとは限らない。事実は、諸科学がとりわけ発展したのは、それらが自らの独立性を自覚し哲学から分離したからである」(同、183頁)

こうしてルベーグは、諸問題を精確さ・確実さにおいて研究するところの数学が、不正確で不確実な答えに満足せざるをえない哲学に求めるようなことは、数学がその本性を見失うことであり、あってはならないことだ、と主張する。

「私の意見では、数学者は、数学者であるかぎり、哲学に没頭すべきではない。なおこれは多くの哲学者によってはっきり述べられた意見でもある。反省の、また理解の努力は、数学の哲学との関連に向けられないで、いわば数学の内部になされるべきである。」(同、183頁)

こういう徹底した態度は、数学の学問的発展を真摯に希求するものとして、率直に好感が持てる。
他方で、数学の哲学からの乖離が、哲学との交流をいっそう難しくしてしまうことに対する危惧もある。これは、その後の歴史の発展を見ることによって、明らかにされるべきことがらであるが、事態はルベーグが望む方向に進んでいったのである。

永井博『数理の存在論的基礎』の序を読む

永井博『数理の存在論的基礎』創文社、1960年。

永井は本書の序で、今日の哲学の現状を率直に分析し、哲学の課題を投げかけている。すでに半世紀以上前の本であるが、現代の哲学の状況や問題意識にも通ずるところがあるように思われたので、内容を紹介してみたい。

今日における哲学の概念の多義性は、哲学の概念を単なる名目に堕している。哲学を否定する哲学もまた哲学的であり、すべての主張が哲学ならば、もはやいかなる哲学も存在しないというに等しい。過去に哲学者は存在したが、現在の哲学者はいかなる意味で哲学者でありうるのか。このように、現代の哲学は、性格を奪われており、「無性格」を性格とする。

永井は、哲学と科学の乖離を問題として、旧著『近代科学哲学の形成』で、その交流の可能性を歴史的に探究した。本書はその問題の一環として、数学という自律的な科学と哲学の関係に関する存在論的探究を試みたものである。

永井は、哲学と科学の関係について、哲学が科学を無視して、哲学固有の問題にひきこもることは可能だという。それも哲学に違いないが、消極的な態度である。他方で、科学を自称する哲学もある。それは、科学に哲学を即応させようとする限りでは、積極的な意義をもちうる。しかし、科学に従属し、科学を無条件に肯定するのは、悪しき科学主義として問題である。

哲学とは何か。永井はこの問いを、哲学自身に固有の問題として提起しない。「現代における哲学の理念の追究は、現代に固有の学問的状況から出発しなければならない」からである。(4頁)。

伝統的哲学の遺産は継承されなければならないが、ただ既成の哲学を流用するのでは効果がなく、権威主義に堕する。また、哲学の流行に振り回されて、哲学の本来の真実性を見失うのも、同じく堕落である。現代哲学でも、単に受動的に学習するのでは、歴史的哲学を学ぶのと大差ない。現代哲学においては、「現代が直面している基本問題を打開するためにみずから徹底的に思索し、ひとりひとりが真に哲学的な思惟の主体となることでなければならない」(5頁)。

永井は本書で、数学と哲学とが触れ合う境界を摘出し、数学的存在の存在論的系譜を探究することを主題とする。現代の数学や、数学の哲学からみると、集合論直観主義形式主義、超数学という、今となってはだいぶ古くさい、基礎的な枠組みのもとで書かれている、という印象がある。KleeneのIntroduction to Metamathematicsがちょうど1960年頃に出版され、数学基礎論ないし数理論理学の基本書として定着した時期であり、その意味では当時の数学基礎論を踏まえた枠組みであろう。しかし、一般的となって久しい分類のもとでの哲学的な問題意識を再確認することには、今でも一定の意義があることであろう。

本書が行うのは、数学的存在に関する存在論的考察である。数学的存在の本質に関する問題は、数学的思惟の本性が何であるかという問題と不可分である。この意味で、数学的存在の問題は、存在の原型と思惟の原型とが根源的に結合するところであるが、その結合の基本構造を解明しようとするところに、本書の究極の課題がある。

「すなわち「数理の存在論的基礎」の考察は、究極的には、存在の原型と思惟の原型との統一体から数学的存在と数学的思惟との相関関係をいかなるものとして説明するか、また逆に後者を手引きとして前者をいかなるものとして把握するかにあるといってよいであろう。このようにして本書はまた、数学基礎論から区別された意味での「数理哲学への新しい試論」でもある。」(7頁)

数学が、あるいは数学の哲学が、永井が試みるような存在論的考察を必要とするのか、というのは考察すべき課題である。数学そのものの自律性の観点からしたら、数学の存在論的基礎を考察することは、およそ無用のものである。また、数学の実践において立ち現れてくる哲学的な問題意識について、これまでの哲学ではあまり触れられてこなかったのであり、数学の哲学の伝統的な主題や基礎的概念ばかりでなく、そうした数学的実践にも、哲学は目を向けるべきことが指摘されうる。しかし、数学を思考する存在者としては、またそれに注目する哲学としては、実在の世界と思惟の世界との相関について、どこかで考えないわけにはいかないだろう。

むろん永井は、哲学がこうした存在論的問題を考察せずとも成立する可能性を認めている。むしろ、実在の世界との関係など、およそ決定的解明を期待しえないものであり、論争の泥沼におぼれてしまうのがオチである。無益な論争に徒労するより、経験的・実証的探究に努めたほうが、賢明であるという考えもあろう。そうした態度には、形而上学は学ぶべき点があろう。

しかし著者は、そうした点を自覚しつつも、存在論を唱えることの意義を主張する。なぜなら、「科学の、今の場合数学の成立根拠を真に存在論的な思索をもって追跡してゆけば、事態の必然として「超越」の問題に衝当らざるをえず、そこに否応なしに実在の問題が登場してくる」からである(9頁)。このような超越の問題を考えることは、著者にとって一つの哲学のあり方なのであり、「精神的冒険」なのである。

クラヴィウスに関する包括的な数学史研究


曽我昇平氏の博士論文、「クリストファー・クラヴィウス研究―イエズス会の『学事規定』と教科書の史的分析―」が、国立国会図書館デジタルアーカイブから閲覧・ダウンロードできることに、先ほど気がつきました。

まだ要旨を読んだのみですが、これまで欠けていた中世の視点とりわけイエズス会派の視点、教育的影響、そして漢訳を通じた中国算術への影響も踏まえた、クラヴィウスに関する包括的な数学史研究です。日本でこのようなクラヴィウス研究が出されるのは、初めてなのではないでしょうか。

数学史・科学史研究者だけでなく、日本のデカルト研究者や近世哲学史研究者にとっても、今後必読となる、貴重な研究と言えそうです。これまでもっぱらデカルトや近代数学革命の視点からクラヴィウスが評価されがちでしたが、そうした哲学史観や数学史観に反省を迫るものになりそうです。

哲学史研究者としての課題は、こうした歴史学的アプローチの浸透を、どのように真摯に受け止めて、哲学史の意義を今後確保していくのか、ということになりそうです。

リンク:http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8783143

哲学史の方法。村上勝三氏の「理由の系列としての哲学史」メモ。


村上勝三氏(以下敬称略)が近著『知と存在の新体系』において、哲学史の方法について論じている箇所がある。第1章の「理由の系列としての哲学史」である。以下は、その内容についてのメモである。

知と存在の新体系

知と存在の新体系


哲学史は多くの場合、現代を終着点にする。その場合、最も進歩した時代である、現代の哲学が最も優れているという進歩史観に染まりやすい。村上は、このような哲学史進歩史観を懐疑する。進歩史観は、今を都合よくもっとも真理に接近していると解釈してしまい、現代に対する批判的精神を歪めてしまいかねないからである(無論、そこでは「真理」や「進歩」といった概念そのものが問われねばならず、これら自体が哲学の課題である)。


しかし我々は、現代を終着点として、それへ向けて歴史を組み替える傾向性をもつ。これは今を生きる人間がどうしても逃れられない、人間が自然にもつ傾向性である。したがって、我々の課題は、このような傾向性をもちながらも、進歩史観をどのようにして免れうるかということになる。問題は、進歩史観から受け取る影響を、どのように軽減できるかにある。そこで、村上が本書で提示するのが、「理由の系列としての哲学史」である。それは、さまざまな教説の展開を、理由に基づいて描いていくことである。こうして、「理由の系列を辿ることによって、我々は現実的出来事と時間の流れを或程度捨象できるので進歩的歴史観を抜け出しやすくなる」(6頁)。たとえば本書では、現代哲学とは無関係であり、今更問い直す必要もないと考えられる主題の具体例として、「神の存在論的証明」を挙げ、それが進歩的哲学史観の帰結であることを主張する。


また、次のようにも言う。「歴史を振り返るということは、現状を問い直すための材料を手にすることである。哲学史を学ぶということは、現状を問い直すためのさまざまな視点と物差しを手に入れることである。現状の問い直しは、いつでも「私」についての問い直しをともなう。私のいない現状はないからである」(8頁)。「私」を獲得しうるのは、「哲学史の往復」なくしてはありえないのである。


つまり、哲学史の意義は、現代についての批判的精神を養い、現状を問い直すための多様な視点と基準の確保にある。現代に生きるわれわれが感じている思いが、いったいどのような「ものの見方」の上に成り立っているものなのか。そのようなわれわれの思いの習慣は、伝統の上に立って形成されているが、それをもう一度洗い直して自分の思いを確かめ直すのは、哲学史探求の一つのかたちである。それは、現代に生きる「私」を探求することでもある。「理由の系列としての哲学史が提供するのは「私」を再獲得する道筋である」(17頁)。


現代にとらわれない、普遍的に適用可能な「ものの見方」というものは、哲学の歴史のなかに探求することで、手に入れることができるものである。その意味で、哲学史研究とは、真理の発見過程の探索であり、さまざまな「ものの見方」を振り返ることである。「批判的視点を提供してくれるさまざまな「ものの見方」を手に入れるためには哲学史を遡ったり、哲学史の流れを追ったりしながら自分の思索を鍛えなければならない」(13頁)。こうした「ものの見方」は、単純にどちらか一方が優越している、という第3の共通の尺度を見つけられるものではない。その共通の尺度が選ばれるための第4の尺度を必要とし、以下、無限背進に陥るからである。


哲学史研究では「費用逓減の法則」、要するに、その労力に対する哲学的な効果や結果が疑問視されるが、村上はこうした現代科学および現代社会に蔓延している便利さの重視、すなわち、ある種の効率至上主義に対して、強い危機感を感じているように見受ける。たとえばそのことは、「哲学史研究において求められていることは、生活上の便宜ではない。さまざまに展開されて来て、いつの時代でもそこから考えてみることによって現象の異なる相貌が現出するような見方、「ものの見方」である」(13頁)と述べていることからも、伺うことができる。


以上のように、村上が提示する「理由の系列としての哲学史」のあり方は、哲学史進歩史観的な先入見を批判的に洗い直す、批判的哲学史観である。その目的は、本来、各時代各哲学者のあいだで異なったり断続的である哲学史を、理由の系列として辿ることで、「ものの見方」が変遷していくことを理解する連続性を確保しつつも、そのことにより現代を到達点としてわれわれの認識が進歩していくという歴史的価値観をいくらかでも軽減することにあろう。また、その哲学史は、より普遍的な観点から現代を批判的に評価し、われわれの位置付けをより客観的な仕方で再確認することを意図していよう。

連続体の迷宮とは何か(講義原稿)

「連続体の迷宮とは何か――ライプニッツとパースが挑んだ最大の哲学的難問――」

私の研究テーマである「連続体の迷宮」について、人文の学生にもわかる範囲で説明するべく、講義原稿として書いたものです(上のリンク先から、pdfがダウンロードできます)。
うちの大学で6月に予定されている、「人文知コレギウム」での発表準備も兼ねています。

過去に書いた論文や、授業レジュメを元に、数学的な詳細はなるべく避け、その要点をできるだけわかりやすくまとめたつもりのもので、授業ではさらに説明をいろいろ補足しました。これまで授業してきた中でも、かなりベストに近いパフォーマンスだったかもしれません(当社比)。

しかし、受講生の8割以上は難しくて理解できなかったようです。1割くらいは、そもそもなぜこんな問題を扱うのか、まったく理解されませんでした。さらに数名は、哲学などもはややりたくないとまで思ったようです(ショック)。ちょっと、一般客も来るコレギウムで、このテーマで発表する自信がなくなってきました。

なので、本文はより一層説明が足りないところ、関心が相容れず寄せ付けないところ、などなど至らない点が多々あろうかと思います。申し訳ない。それでも1割くらいは興味をもってくれたようなので、ポジティヴに捉えたいと思います。

特に新しい内容はありませんが、連続体の迷宮の本性について、これまでよりも多少は整理されているところもあります。

これを研究テーマとしながらも、数学の勉強の時間もとれず、哲学にしてもあまりに研究が進展していないので、これを機にもう一度、この問題にめげずに取り組んでみようと決意した次第です。

デカルト 数学・自然学論集〔後日譚〕

【前の記事→告知

デカルト 数学・自然学論集』は、デカルトの遺稿集やメモ、ノートだけでなく、他人が書いた日記や入門書の集成である。我々が今回訳したものは、あまり一般の関心を買わないであろう、デカルトの数学・自然学に関するマイナーワークと見なされがちなものだ。しかし、デカルトの数学・自然学や哲学の生成に関わる非常に重要な論点も数多くあり、今後のデカルト研究や科学思想史の発展に少しでも寄与できれば幸いである。

扱っているテキストが極めて複雑であり、しかも文献研究のレベルが高い「デカルト」ということもあって、翻訳に当たっては細心の注意を要するところが多かった。翻訳の作成も大変だったが、編集もまた至難のわざであっただろう。私の分担したところでは、内容の理解が追いつかないまますでに粗訳が出来て、出版が差し迫ってきた段階で、ガリマールから新しい仏訳解が出版されるなどして、テキストの理解を補いながら校訂を進めていかざるをえなかった。さらに原典のページ数や、注番号がズレるなどで、最後の方は内容の理解とは異なる形式的な体裁を整えるところでも大変な思いをした。

私の担当箇所は、特殊な数式がわりと多いので、LaTeXという数式処理に秀でたソフトで原稿を書いていたわけだが、全員がTeXを扱えるわけではなく、Word原稿とTeXで作ったpdf原稿をどう調整するかも問題になった。最終的には編集者の郷間さんが、InDesignでうまく調整してくれた。校訂段階に入ってからは、校訂作業で読み直していくたびに、新たな理解と訂正、追加の注などが発生し、ついには編集者が夢にまでうなされたというから、編集者の負担も尋常ではなかったことが推し量られる。今回の出版で、校訂作業の悪夢からようやく解放されたことを願ってやまない。

翻訳作業の開始は、もはや記憶が定かでないが、今から5年くらい前の201X年にさかのぼる。5年もあれば、翻訳の精度の高い、脚注・解説も充実したものができるはずだが、あくまで片手間で翻訳をしていて、デカルトの初期数学論そのものを研究の本対象としていない身としては、専門の壁は高く、作業するには結構短い期間であった。

それでもいちおうの完成にこぎつけることができたのは、偉大なデカルト研究の先輩方のおかげである。山田先生や武田先生のきめ細かな調整により、年数回の会議が開催され、その都度、翻訳方針の打ち合わせがなされた。科研費や出版助成を申請し、採択を勝ち得たのは、武田先生の労力によるところ大であり、それがなければ十分な研究書も揃わなかったし、出張もままならなかったと思われる。海外からデカルト研究者を招聘し、シンポジウムやコロックなども開催し、国際的な場で、翻訳に関連する内容についても研究発表をさせてもらった。翻訳の草稿が出揃ってからは、複数人による相互チェックで、不備を補い合った部分も多い。今回の翻訳書は、哲学・科学史・文学という学際的なメンバーによる、チームワークでしかなしえなかったもので、人文学の成果の一つのあり方といって良いであろう。

こうした分担作業は、えてして、自分の担当部分だけに埋没してしまいがちだが、山田先生および武田先生という、全体を見渡してくれる、監督者の存在はたいへん貴重であった。こういった知的協力体制がとれるのも、これまでの日本における、デカルト研究の蓄積のたまものだと思う。

武田先生においては、夏山合宿までして、担当箇所の翻訳や理解について議論していただいた。きつい登山で味わった足の痛みと共に、今では貴重な思い出である・・・。

とはいえ、感慨にふけるには、まだ何か成果を出した気がしていない。デカルトの初期数学論について、部分的には理解したところもあるが、まだ哲学との関係や、全体を見渡した上での俯瞰的な見解には至っていない。「木を見て森を見ず」だったところを、私なりに研究して、デカルトの数学と自然哲学について、何か核心的な理解を得たいものである。


【追記】誤植訂正

細心の注意を払って校正したつもりでしたがが、自分の担当箇所にいくつかの誤りが見つかりましたので、以下のように訂正をお願いいたしします(2018年8月24日)。

デカルト 数学・自然学論集』誤植訂正

「立体の諸要素のための練習帳」

・123頁、最初の数式表の3行目、「108+120-44+21, 135」(誤)→「108+120-144+21, 135」(正)

・125頁、最初の数式表の3行目、「15|2+170+228+48, 282」の、「15|2」に付いている注59を「170」に移動し、注59「ヴァルスフェルは132に訂正」を、「「ヴァルスフェルは132+270に訂正」に訂正。〔この箇所はデカルトがそもそも誤っており、ライプニッツも計算が合わないと指摘している箇所で、ややこしい訂正となってしまいましたが、これでようやく計算が合います〕

デカルト数学・自然学論集〔告知〕

もうすぐ出版されるということで、告知をさせていただきます。

デカルト 数学・自然学論集

デカルト 数学・自然学論集

目次は、法政大学出版局さんのページにもありますが、以下のとおりです。

目次
凡 例

はじめに 【山田弘明

 【フレデリック・ド・ビュゾン】

ベークマンの日記 【中澤 聡 訳】

思索私記 【山田弘明・池田真治 訳】

立体の諸要素のための練習帳 【池田真治 訳】

二項数の立方根の考案 【武田裕紀 訳】

デカルト氏の『幾何学』のための計算論集 【三浦伸夫 訳】

数学摘要 【但馬 亨 訳】

屈折について 【武田裕紀 訳】

カルテシウス 【武田裕紀 訳】

キルヒャー神父の『磁石論』摘要 【武田裕紀 訳】

デカルト氏が書いたと思われる『哲学原理』注記 【山田弘明 訳】

ストックホルム・アカデミーの企画 【山田弘明 訳】

解 説

I 『ベークマンの日記』 【中澤 聡】

II 『思索私記』 【山田弘明・池田真治】

III 『立体の諸要素のための練習帳』 【池田真治】

IV 『二項数の立方根の考案』 【武田裕紀】

V 『デカルト氏の『幾何学』のための計算論集』 【三浦伸夫】

VI 『数学摘要』 【但馬 亨 訳】

VII 『屈折について』 【武田裕紀】

VIII 『カルテシウス』 【武田裕紀】

IX 『キルヒャー神父の『磁石論』摘要』 【武田裕紀】

X 『デカルト氏が書いたと思われる『哲学原理』注記』 【山田弘明
XI 『ストックホルム・アカデミーの企画』 【山田弘明

あとがき 【武田裕紀】
人名索引
事項索引

いずれも、本邦初訳のものばかりです。デカルトの遺稿を中心として、デカルトと交流があり、デカルトが数学的自然学へと目覚めるきっかけを与えたベークマンの日記や、デカルト自身が認めた『幾何学』への入門が収められています。

私が携わったのは、『思索私記』と『立体の諸要素についての練習帳』です。どちらも、ライプニッツが写本したものがベースにあるので、ライプニッツの数理哲学を中心に研究していた私にお声がけいただいた、ということのようです。デカルトについても、フランス留学中に、修士論文デカルトの『規則論』(『精神指導の規則』)で書いていたこともあって、初期デカルトには強い思い入れがありました。

当初は、分量もさほど多くなく、翻訳もいくつかあるのでなんとかなるだろう、と軽い気持ちで引き受けたのですが(実際、山田先生もそんなことをおっしゃっていた記憶が・・・)、これはとんでもない過ちでした(苦笑)。私が訳した部分は、きちんと完成し出版(が意図)されたテキストならいざ知らず、未完成段階の、おそらく単なる思索のためのノートのようなもの。しかもデカルト直筆の原稿は残っておらず、その原稿をさらにライプニッツがなぐり書きで筆写したものなので、ほとんど得体の知れない文字列と向き合うことになりました。解読のための苦労のあとは、脚注や解説などをご覧いただければと思います。

【つづく→後日譚